ひきこもりの作法

一本、また一本…集めた後ろ指の数はアイドル級。悩み多き某ひきこもりによる孤軍奮闘の日々がここに。

ひきこもり不動録Vol.18「発信の道」

発信の道

当初は自身のリハビリの一環として始めた諸々の発信行為ではありますが、文章、映像、ラジオと大方手を出し尽くした今となっては、自身の作品がいずれも三流の品質であることについてだんだんと悔しい気持ちが湧き出でて参りまして、今日では「何か一つは快作を……」という思いに至っております。

 

とはいえ、noteの方では私の想定を遥かに上回る「スキ」や「フォロー」をいただいておりますし、YouTube動画の方でも、モノによっては再生数が100を超えたり、ラジオ動画に関して沢山の「マシュマロ投稿(匿名のメッセージ)」をいただいたりと、既に十分過ぎるまでに贅沢な"反応"を味わわせていただいております。

 

ところがこれが人の「欲心」、善く言えば「向上心」といったものの働きか、恐る恐るで何もかも新鮮だった発信行為もそろそろ板についてきて、周囲に並み居る強豪発信者たちの圧倒的な支持数、そして何よりその作品のクオリティを目の当たりにする度に、「私も負けてはいられない」という気持ちに寄ってくるのです。

 

勿論、ただ一心に支持数のみを追い求める発信行為が如何に空虚であるかということは私も今よりずっと青二才だった時代に痛感してきましたし、「外聞には囚われず、内なるものを発露させた結果で一定層に刺さる」という順序でなければならないことは承知しております。すると私はただ直向きに、己の内奥をより濃く、深く、発信物に出し切ってゆかねばなりません。

 

何だかこういった過程も含めて、実は私の本題である「脳機能のリハビリ」に話が繋がっているような気がして参りました。冷静に考えてみれば「作品の向上を目指す」という姿勢は発信者の端くれとしても在るべき姿に思えますし、そうした負荷が脳に良いであろうことも自ずとわかってきます。

 

いざ全力で取り組んでみてダメだった場合、それはそれで「華麗なる敗北」を味わえて清々しいだろうと思います。やはり一番は自分の能力を開放し切ることであって、開放し切ってさえあげれば、結果がどうあっても「己」は納得してくれる気がします。

 

「出すべきを出し切れなかったこと」。後悔の質とはいずれもそういうものではないでしょうか。全力で考えて、全力で戦って、全力で楽しんで、全力で休んで……といった大解放を起こした先では、必ずや波立たぬ湖面に、蓮の花まで咲いて、静かに華やぐ光景がある筈です。

 

きっと全力で生きる者には、どう転んでも人生は爽快なのでしょう。私もそうした境地で生きてゆきたいものです。