ひきこもりの作法

一本、また一本…集めた後ろ指の数はアイドル級。悩み多き某ひきこもりによる孤軍奮闘の日々がここに。

ひきこもり不動録Vol.14「未知の悦び」

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未知の悦び

YouTubeでのラジオ動画に手を出してからというものの、ここ最近は「音声発信について」を頻りに考えながら過ごしています。ちょっと暇な時間が出来れば、どうすれば良いラジオが作れるのか、ラジオとして自分が目指すべき方向性はどこか、というようなことを自分なりに考え込んでいるのです。

 

私はこれまでにブログやSNSを利用した文章発信や、PCソフトを使った作曲、コミュニケーションソフトを使った人々との交流といった具合で、曲がりなりにも様々な世界に手を出して参りましたが、どれも初めの段階では強烈に新鮮だったことが印象に深く残っています。

 

初めて文章発信をする時の、あの独特の罪悪感のような気持ちと、無尽蔵の躊躇い。初めて作曲ソフトに触れた時の、音符を配置して「音が鳴る」だけで楽しいあの無邪気な幼心。本当に手が震えながらキーボードを打っていた、ネットを介した他人とのコミュニケーション。失敗や後悔をも含めて、今となってはどれも良い思い出です。

 

人間が何か新しい物事に挑戦する際、「全くの素人」→「初心者」といった風に、何もわからない段階から、一応は形を成せる段階へと歩みを進めることになりますが、どうも私はこの過程が非常に面白く感じられているようなのです。

 

以前、ネットで知り合った友人の影響で有名なテーブルゲームである「麻雀」に手を出したことがあったのですが、もともと私には何の知識も無かったどころか、「麻雀」に対して強い苦手意識さえありました。それは、ルールが難解であることが傍目にも感じ取れていたからです。

ところが「脳のリハビリも兼ねて、敢えてやってみよう」という気になって、勧められた当日の夜に麻雀のルールについてをネットで三時間ほど検索し続けました。がむしゃらに噛り付いていたと思います。これまでの自分の人生で掠り(かすり)もしてこなかった、全く見知らぬ畑の、全く見知らぬ知識。これには非常に頭を抱えさせられると当時に、"未知"の到来を脳は大変喜んでいるようでした。

その甲斐あってか、翌日にはもう基礎ルールを把握して実戦が出来るようになっており(実物の牌を扱わないで済む、ネットの麻雀でしたが)、しかも所謂ビギナーズラックのお陰か、最強の役らしい「国士無双」を出せたりもしました。自分が絶対に出来るわけがないと思っていたものが、一応形にはなっている。私はこのことに、物凄い達成感を覚えました。

その後、一週間ほど麻雀にハマって過ごしましたが、「ちょっとやるつもりが気付けば数時間経っている」ということが増えて参りましたので、「私にとってこれは沼だ」(自制を離れて延々とやってしまう)ということで、危機感によって手を引いた……という顛末をたどりました。そして、結局今では麻雀を打たなくなってしまいましたが、その一連の出来事は今でも色褪せない思い出として輝いてくれています。

 

このように「全く未知の状態」→「形にはなる」という段階が踏むことが、これほどまでに楽しいのは何故なのでしょうか。私が個人的に長期間のひきこもり生活を送ってきたことにより、「何かを新しく知ること」に人一倍飢えているのでしょうか。或いは、本質的な「学びの楽しさ」の一片を感じられているのでしょうか。

 

現代人は特に「自分が知っている範囲がこの世の全てである」という錯覚を抱くようになっていると思うので、まだまだ世には数多くの「未知」があることを定期的に思い出すようにしたいものです。

 

今後も「自分がやりそうにないこと」「自分には無理そうなこと」に敢えて手を出しながら、人間としての回復を進めてゆこうと思います。件の「音声発信」については着地点が見えず、失敗して手を引く可能性も十分に見えてはいるのですが、そうなった場合は自分側から音声発信をすることをきっぱり諦めて、観客側のソファに深く腰掛ける。自分で実際に失敗してみたが故に、一流の凄さが改めてわかって、より深く楽しめるといった風に、「敗北の快楽」を味わえる予感がしています。

 

今後も「未知の悦び」を噛み締めながら、成功の失敗も含めて楽しんでゆこうと思っています。