ひきこもりの作法

一本、また一本…集めた後ろ指の数はアイドル級。悩み多き某ひきこもりによる孤軍奮闘の日々がここに。

ひきこもり不動禄vol.9「目の解放」「いいねの嵐」

目の解放

副業の練習。日記代わりのブログ。創作用ソフト。
そして、ネットを介した他者とのコミュニケーション。
 
私の行動パターンといえば、揃いも揃って人工の「画面」と向き合うものばかりなのですが、この頃はそれでブルーライトを受けすぎて、目の奥に"煤"でも溜まったような感覚がよく起きています。
 

そのうち、目と脳の接合部分と思われる辺りがズゥーンと鈍い痛みまで帯びてきて、これじゃいけないとわかっておきながらも、結局外に出ようにも今の時期は暑くて億劫なものですから、惰性でまた「画面」へと視線を戻してしまうのです。

 
一方で、「画面」を見ずに運動をしている時などに、これがじわじわと浄化されてゆく感覚が起きてきます。例えるならば、締め切った部屋の窓が開け放たれ、部屋に沈殿していた憎き煤どもが洗いざらい流れ出てゆくような感覚です。
 
散歩はまさに最適ですし、運動とまでは行かずとも室内でデジタル物を断ち、アナログ物をじっと眺めているような時でも、幾らかこの「目の解放」の感覚が起きてくれます。私は積極的にこれを狙ってゆかねばならないようです。
 
これだから、現代の中途半端なテクノロジーはいけません。もっと技術が進歩して、目に負担が起きない特殊な構造のモニターが普及してくれれば良いのになと、つくづく思います。見れば見るほど目が健康になる画面などがあれば、人々は視力を損なわずに、脳疲労も少なく、近年は下がりっぱなしである人民の幸福度も、幾らか持ち直してくれるのではないでしょうか。
 
 

いいねの嵐

「反応」を得ることは難しいものです。
 
しかし、現代では多くの人々がインターネットのSNSサービスを利用し、そこで他者からの「反応」という報酬を、朝夕問わずに期待するようになりました。
 
なるべく多くの反応を得るために、場合によっては嘘をついたり、自らの私生活を変えるという事例も今ではそこまで珍しくありません。究極的には人が生きるということのほとんどは外部からの「反応」を求めることにある気もします。そして、これの目に見える「反応」に強く焦点を当てたものこそが、まさに現代のSNSだろうと。
 
とはいえ実際、一般的な人間がどれだけ趣向を凝らして発信しようとも、その影響力といったものはたかが知れています。今の時代、競合となる他者はその道一筋のプロフェッショナルや、企業という強力な支援者を裏につけて発信している場合がほとんどだからです。
 
そもそもこの「発信」という行為自体、元はといえば大型メディアやマスコミなどの特権であり、既に固まった土壌に一般の人々が流入してきた……という構図だと説明した方が正しいように思われます。なので一般人は皆、そこに長らく住まっていたヌシ達からすれば戦力外も同然だと言えます。
 
つまり、一般人がSNS等で他者からの「反応」を得ることは、数か月働き通してようやくコップ一杯の水道水だけが貰えるような重労働であり、余程の気力と覚悟がなければ務まりません。重労働分の水分の消費によって、すでにコップ一杯分の水分量などとうに上回っていますから、その渇きは永久に癒されることがない。そんな悲劇なのだと。
 
一方で、最近私は気が付いたのです。自然界といえば、溢れんばかりの「いいね」の嵐が吹き荒れているではないかと。季節の花々に近づけばいずれも甘美に香るものですし、時間帯によって様々な表情を見せる空の色合いや、照り付ける太陽光といえば「いいね」を越えて、「とてつもないね」の域で我々を出迎えてくれます。植物の枝に触れればそれは即座に揺らいで応え、鳥に近づけば独特な羽音と共に空中を耕してくれますし、海は近づく程に原初の歌声を響かせてきます。
 
「私たちが実在の世界を生きて、動く」という謂わば小さな発信行為は、宇宙という巨大な観客の熱視線によって常に反応が保障され、どうやっても無限の「いいね」が降り注ぐようになってしまっているのです。「発信」に対する「反応」。こんなものは、人間は既に持て余すほど各人が満たされており、ただそこに気が付くか、気が付かないかだけが充実感を得られるかどうかの分かれ目になっていると。
だいぶ飛躍した考えかも知れません。兎にも角にも、まだ夏の残り火混じりの9月の微妙な風を肌に受けて、そのような発想が自然と湧き出て来たのでありました。
 
例えどんなにネットの反応が得られず、心折れそうな時があったとしても、我々は既に自身が宇宙的「いいね」の雨嵐の中に居たことを定期的に思い出して、引き続き、この荒れた野山を切り開いてゆこうではありませんか、壮絶なる同志よ。