ひきこもりの作法

一本、また一本…集めた後ろ指の数はアイドル級。悩み多き某ひきこもりによる孤軍奮闘の日々がここに。

ひきこもり不動録Vol.22「叱られて良かった」

かつて、ひきこもりの私には「ネットゲーム」だけが世界の全てでした。

 

ゲーム機の電源を入れて、わざわざ別売りのUSB式キーボードを繋いで、暗い自室で寝起きを繰り返し、半ばボケてしまった私の頭には早すぎる、繰り広げられるチャットの"平均速度"に負けないようにと、毎秒必死で画面に食らい付いていました。

 

10年ほど前はちょうどチャット文化の隆盛期であり、皆さん本当に文字を打つのが早いし、上手だった。そのせいで、ちょっとでも遅かったり口数が少ない者はすぐに浮くわけです。まさにスパルタの世界でした。

 

しかも皆さん、文字の世界に日夜夢中なだけはあって、語彙が豊富で、即興で顔文字を作る柔軟性にも長けているわけです。今から考えると信じられない世界がそこにはありました。交流といえばどれも「音声」でやることが一般化し、文章的思考も日常では要されなくなってしまった現代では、もはやそういうのに付いていける人間は誰一人居ないのではないかとさえ思います。

 

言うなれば、私の最終学歴は「ネットゲーム」。一回りも二回りも年配ベテランユーザー達に囲まれて、七転八倒の日々でした。マナーやリテラシーについて怒られたり、聞いてもいない大人の常識を叩き込んでくる、いわゆる"説教おじさん"みたいな人も大勢いました。

 

私は当時、「年齢が低い=舐められるし、邪魔者扱いされる」という価値観を持っており、そしてそれは当時の実際のネット風潮を鑑みた現実的な判断でもあったわけです。なので私は年齢を一回り上に詐称して活動したりもしたものですが、ベテランの目を騙すことは叶わず、すぐに見抜かれていました。当時のアイドルや流行の話になると簡単に襤褸が出てしまうので悔しいです。

 

社会のことなんて右も左もわからない未成年だった私も、説教おじさん、或いは人情に溢れる周囲の大人達から打たれる内に、だんだんと色々な「ものの道理」が分かってきたように思います。あの時、説教して貰えて本当に良かったです。10年ほど経つ今振り返ってみてもまだ胸に残っている内容の説教が多く、当時は渋々聞いていたそれらが、今では人生で役立つ宝物に変わり果てています。いずれもその裏側にいつも「親切心」があったことに気付いたのは、今頃になってからだというのが甚だ惜しいですが…。

 

現代では当時のような"説教おじさん"は面影すらもありません。年々増加傾向にある「ハラスメント意識」や「配慮」の風潮の先に、彼らの存在は社会的に認可されなくなってしまいました。叱るよりも無視。そして何が原因かもわからないまま若者が脱落していく世界になったのではないでしょうか。説教を受けられなくなったことで、若者には却って不利な状況になったのではないかと危惧してもいます。現に、若者同士でもコミュニケーションや仕事が上手く行かなくなっている光景を見るからです。

 

当初はスパルタに感じられていたチャット速度にも慣れて、むしろ周りのことを少し遅く感じられるようになった頃には、年下や同世代と話すことが私には退屈になってしまいました。私にとってはもはや、成熟していて、落ち着きがあって、私が雑に振舞うと説教してくれて、唐突にしんみりと昔話を語りだす年配の方々との関わりこそが刺激的で、心が潤う時間になっていたのです。

 

幼稚でそわそわしており、自論や信念を持たない私だったからこそ、そうした人の厳かな「成熟」の気を渇望していたのでしょう。それで、「グループの中で自分が一番未熟である」という状態になっているのが私にとって一番心地よく、楽しいと感じられる状態でした。そんな我儘で欲張りなキッズだった私ですが、今の私があるのは時にため息をつきながらも、そんな我儘を受け入れてくれた彼らの厚意があってこそです。

 

ネットゲームの世界には相当強い思い入れがあったようで、当時の写真はスクリーンショット(画面写真)として何十枚もフラッシュメモリーに保存されていました。昨夜、それをふと思い出して捲っていく内に当時の記憶が生々しく蘇ってきて、懐かしいやら切ないやらで、胸が締め付けられるような心地がしました。

 

老若男女問わず「フレンド」として日々チャットを交わし続けていた彼らの姿が、一人一人の名前とやり取りの内容まで鮮明に思い出せるのですから、よくそんなに覚えているなとも自分でも呆れる程でした。それほど思い入れがあったのでしょう。何せ、当時の私にとってはそこが唯一、人と関われる「世界」だったのですから。

 

そして同時に、もの凄いことに気が付きもしました。記憶の中の彼らは誰一人としてかけがえのない、今でもまた話したいと思える存在です。しかし、現時点で私が賜っている新しい人間関係の数々は、懐かしさから輝きが倍増しているであろうかつての綺麗な思い出たちさえも超えて、更に上位の輝きを放っているように感じられるのです。

 

まさに、「思い出を超えた」ということです。これも一重にネットゲームで受けてきた説教が土台となって、私のコミュニケーション能力が一つ上の世界に向上できたお陰だと思います。本当にありがたいことです。ただ、何も私は社会全体が説教で溢れるべきなんて思ってはいません。実際、理不尽過ぎて小生意気なことを言い返してやった経験も何度かあります。それはそうと、後続の同志たちの為にも、「気軽に説教を受けられる空間」が何処かにあった方が良いのではないか…と思うわけです。

 

面白いことに近年のYoTubeでは、投稿者のコメントに対し、敢えて"真正面から切り捨てる"ような回答をするといった種類の動画が盛り上がってきています。しかも、意外なまでに若者の利用者が多い。とにかく何事も「忖度」「配慮」の現代において、その結果行き着いた無関心で不干渉な空気の中で、実は大衆の深層心理は「説教おじさんの説教」の方を求め始めているのではないかとも感じるのです。

 

生物は年齢が高い方から先に死ぬ。なので、常に若年層の健康と成長を重視した社会風潮こそ増大してゆくべきだと思います。「説教は野蛮だからダメ」みたいな表面上の印象ではなく、本質で判断されるべきです。妙な話ですが、私は「全ては未来の子供たちの為に」という文章を心の中に思い浮かべると、全身に力が戻ってくる感覚が起きます。元はと言えば、種の重要事項として遺伝子にプログラミングされている内容なのでしょう。そのことを誇りに思います。