ひきこもりの作法

一本、また一本…集めた後ろ指の数はアイドル級。悩み多き某ひきこもりによる孤軍奮闘の日々がここに。

ひきこもり不動録Vol.23「敬語に幽閉された男」

敬語に幽閉された男

 

まさに「それこそが私だな」と思わされているこの頃です。

 

先日、ひきこもり同志と「ため口」を主題に語り合いました。それが持つ人間関係の"距離を詰める"という作用を聞かされて「なるほど」と納得したり、それでいて、お互いにそれがわかってはいても自然に「ため口」を使えない不器用さを共感し合ったり、充実した時間を過ごさせていただきました。この場を借りて改めてお礼を申し上げます。

 

そして、この「ため口」といったある種のコミュニケーション技術について考えていると、それを到底使いこなせない遥か遠景に佇む自分の「コミュ障」が浮き彫りになってきて、辛いながらもなかなか面白いのです。おや、よく見ると遠景の自分がこちらに向かって手を振ってきています。必死に何かを語りかけてきているようです。もどかしいのか、小刻みにジャンプまでし始めました。しかし豆粒程に小さいので、何を伝えたいのか一向にわかりません。彼には少々気の毒でありますが、無視して話を進めることにしましょう。

 

私の発信物を幾つか読まれている方には既に勘付かれていそうですが、何を隠そう小生、公園で遊んでいる無邪気な小児に対してでさえも、軍の上官でも迎えるような強張った姿勢のままで敬語を話し、仕舞には深々と頭まで下げて、却って怖がられてしまいそうな勢いの不器用な男です。長期ひきこもりというだけあって、普通に生きていれば身に付く筈の「社会的な柔軟性」みたいなものがポッカリと抜け落ちているせいじゃないかと思っております。

 

他にも「先輩」「後輩」といった距離感だとか、「年下を可愛がる」「年上を頼る」といった態度がまるで身についていない実感があります。ついでに言うと、「異性と接する」という世界もまるでわかっておらず、これについては特に傍から一目でバレそうなので、当人としては恥ずかしくて堪りません。

 

思い返せば学生時代、私にとって「異性」とはそもそも"恐怖の対象"でした。何故ならば、コミュニケーションで失敗した際の周囲からの失望、並びにクラス全体の輪から排除されるスピード感というものが、同性相手で失敗した場合に比べて何倍も上に感じられていたからです。つまり女子生徒というものは外観こそはあの花も慌てる華やかさでありながら、実体は社会不適合者を炙り出す"冷たいイバラの死神"であったわけです。今はそうでも無さそうですが、私が学生の頃なんかは暇つぶしでネクラ(今でいう陰キャ)に話しかけたり、ちょっかいを出す種類の女子生徒がかなり多かったので、私はただ一心に「絡まれませんように……」と祈りながら、なるべく存在感を消してやり過ごすことを心掛けていたものです。私にとっての青春とは"平和の祈り"だったのかも知れません(笑)

 

ちなみに私は、自由な交友関係に於いてもむやみやたらに敬語を使います。そしてその敬語というのも「社会」という実践の場を経てきた厳正なものではなくて、小説やネット記事から自分なりに切り出してきたパッチワーク(継ぎ接ぎ)を使い回しているに過ぎません。せめて完璧な敬語が流暢に使えれば格好も付くのですが、私のは実質"半敬語"みたいなものなので、どっちつかずで情けない限りです。

 

そして私は数年間にも渡って関わらせていただいている長年の友人相手でさえ敬語を徹底しているので、人によっては「あえて一線引いているんじゃないか」「じつはbotじゃないのか」と相手方に余計な心配を掛けてしまっていそうで、これもいけないと思います。今後はこれらの対策や、「人と打ち解ける方法」というものを探求していこうという気になってきています。

 

辛うじての収穫としまして、拙い敬語を用いて雰囲気だけは"社会人っぽく"話すことが最近はだいぶ板に付いて参りました。コミュニケーション改善の分野では、今後「自然なため口」の練習にでも取り掛かかってみようかと、危なっかしい挑戦心が湧いてきているこの頃です。