↑のnote記事でも書きましたが、ある簡単な方法による「消化力の回復」をきっかけに、また一段階、心身を健康に近付けることが叶いました。(noteの方も読んでくださっている方には「またかそれか…」という話題かも知れませんが、何卒ご愛敬ということで…)
やはり健康とは生活上の何事に於いても基軸となるもので、健康をしっかり整えておきさえすれば、人生の内で起きる課題のほとんどは楽に乗り越えていける。そんな「健康」の大いなる効力を改めて実感させられた次第です。
そのように健康のありがたさを再確認したところで、現時点の私が持っている「ひきこもりの理想の姿」というものを、自分自身への啓発という意味も込めて、以下ではちょっと面白おかしく書いてみようと思います。
名付けて「ひきこもりたるもの」。
1、2、3と追うに連れて話がだんだん大袈裟になってきます。御笑覧ください。
「ひきこもりたるもの」その1
ひきこもりたるもの、社会人以上に心身が健康でなくてはならない。
ひきこもりの本分は、読んで字の如く家屋に引き篭もることにあり。
しかし、人の生態に於いて停滞とは即ち苦なり。
然らば、有り余る健康力を以て、これを清く継続させるべく務めるべし。
健康無くしては、「引き篭もる」こと碌に叶わず。
世俗を隔した日々に於ける高視座の哲学も起きねば
求道者の如く、己が精神の奥深くを掘り進むことも尽くし難し。
健康持たずして引き篭もろうならば、それ即ち刀持たずして戦場に立つ侍なり。
「ひきこもりたるもの」その2
ひきこもりたるもの、朝の旭日に驚きては目覚め、夕の星々に諦めて眠るべし。
それ即ち、源より繰り返される生誕と臨終の祝歌なり。
大衆社会に我が身のリズムを置かぬ身なれば、宇宙リズムに復帰してこそ尤もなり。
人生とはただ死にのみあらず、ただ生にのみあらず。
二極が結ばれ浮かび上がる像にこそ、遂に懐かしき己の姿を見付けるものなり。
「ひきこもりたるもの」その3
ひきこもりたるもの、常に他者の光明を敬するべし。
他者の光明を敬する内に、己が無力を浮き彫りに感じられることまた避け難し。
されど心は見詰め、立ちあがり、探り続けねばならぬ。
その拮抗の果てに必ずや無限の神力の舞い降りて
遂には己もまた光明を具せる神のひとつと思い出すものなり。
いざ葦原の中つ国へ参らんと硬き殻を纏いし神々は
その先で数多の情感と衝撃を受けてこそ殻を破り、ようやく己を思い出すものなり。
これ即ち、我々の真骨頂にて、真なる快癒への道なり。
ひきこもりなるもの、端からこれを目指して此の境遇に身を置く者なれど
日々の雑念の内にこれを忘れ呆けることぞ世の常なりて
されば今一度、これを深く傾想すべし。
あなかしこ、華やぐ八百万の魂よ。
あなかしこ、悠久なる我らが魂よ。