ひきこもりの作法

一本、また一本…集めた後ろ指の数はアイドル級。悩み多き某ひきこもりによる孤軍奮闘の日々がここに。

ひきこもり不動禄vol.8「ボケないコツ」「美しき負の感情」

ボケないコツ

「ボケる恐怖」が私には確かにあります。私のボケるとはつまり若年性認知症のことで、まだ30代ではありますが、自身でも危なっかしく思える場面が度々あるからです。「ひきこもり」といった脳への良性刺激が確保しづらい境遇にあることも語るに避けられない要素でしょう。

 

これに関しては、以前noteの方でも記事を書いていたのでご紹介しておきます。

note.com

 

そのように、日頃から自身がボケる恐怖を抱いている私ですから、ボケ(認知症)に関する書籍が図書館や書店で目に付く度に積極的に手に取って読むようにしています。

現状の結論として、最も危険なのは「孤独感」だと思われます。 興味深いのは、これは本人の主観的な意識の問題なのであって、例えばほとんど一人で過ごしている人が孤独感が無く元気だったり、反対に、大勢の人に囲われながらも孤独感に苛まれてボケてしまう人がいるということです。周りから見てその人が孤独かどうかといった判断は、実際の「孤独感」とはほとんど関係がないようなのです。

 

人の気質にはやはり合う合わないがありますし、根本的な知性や、精神の熟達度合といったものも当然人それぞれです。中にはいずれかが平均よりも大きく秀でているが故に、さまざまな相手に合わせることは容易であっても、心の奥底の孤独感に苛まれ続けているという方も一定数いらっしゃることかと思われます。

 

以上のように、ボケに繋がるのは「孤独感」。更に詳しくいえば、人が孤独感に陥っている際に起きる特殊な脳内物質の反応が長期的に続くことで脳の高負荷となり、最悪はボケてしまうのだと説明されています。これを踏まえると、「孤独感がある限りは人を求め続ける」という諦めの悪い態度こそが、実はボケずに健康で居続けるための秘訣ということになってきそうです。

 

これを知って私自身も、孤独感のある時は意地でも他人と心から繋がれるように努めてゆこうと改めて思いましたし、他のひきこもり同志、または孤独な社会人の方々も、ボケない為にもどうか諦めずに、自分に合う人間との繋がりを探し続けて欲しいと思っています。

 

私は現代を「一億総孤独化」の時代だと思っています。一億人もの人間が居て、実は全員が孤独なのだと。建前では合わせることが出来ても、人同士の間に心の壁が生じてしまっているように感じられるのです。中途半端に進歩したテクノロジーや、グローバル政策による中途半端な外国化、故に生じる文化の歪(ひずみ)、そして大手メディアや権力によって流布される国民の健康を度外視した一方的な悪習慣などが、そうさせている原因だろうと大まかに目星をつけています。

 

バスや電車で偶然隣り合った国民同士が、仲良く談笑する景色。派手に喧嘩をして、結果的に敵やライバルとも打ち解ける、お互いの懐の深さ。こういったものは、現代からするともはや夢物語のようなものでしょう。

 

そういうわけでとにかく、私たちは現代日本を侵食しているこの大きな孤独と戦ってゆかねばなりません。「皆で協力して孤独を何とかする」という意識こそが、この逆境に大きな解決を齎す決め手のように感じられています。

 

美しき負の感情

「怒り」は運動、筋トレ、または問題解決の勇気として

「劣等感」は勉強、訓練、修行への熱意を起こし

「狂気」で発想し、型破りのアイデア

「絶望」が催す笑顔のセロトニン

「自己否定」で意識を外へ向け

「孤独感」で人と繋がり

「憂鬱」で雨を味わう

「諦める」ことの身軽さ…

 

このようにして、我々知的生命体に生じる諸々の「負の感情」というものは、常に有効活用可能なのだと私は確信しております。一般論には悪と語られるそれらは、実際には「心」といった高度な仕組みを持つ存在にのみ許された、上級の「能力」であると。

 

ところが、今の世では過剰に「正の感情」ばかりが持て囃され、あらゆる大衆娯楽ではこれが過度に賛美されています。仲間だ、力だ、愛だ、成功だ、勝利だ…という具合で、冗長にこればかりなのです。作り手も楽なのでこれを乱発しますし、すると受け手の美意識も単調になってきて、同じものばかりを求めるようになってきます。

私はこれについて、「だって肉の方が旨い」と言って野菜は一切食べずに、毎食ステーキやカラアゲだけを食べて生きるようになった肉の中毒者を連想します。つまり、摂取バランスがおかしいのです。

 

古来より伝わる日本人の美意識の中心には「侘び」「寂び」というものがあります。これは簡単に言えば侘しさと寂しさのことであり、前者は失望感ややるせなさ、後者は孤独感や儚さなどを指し示す言葉です。例えばですが、恋路の果てに怒り、または恥ずかしさから狂い狂った「般若」の登場などは能の演目でも醍醐味とされているものだと思います。怒りや悲しみも含めて、負の感情とはこうも心を惹きつける魅力を帯びているのです。

 

このように、古来より日本人は負の感情を愛し、重要視するといった性質が見て取れるわけですね。すると、彼らにとって「正の感情」の過度な押し売りは尚更に悪影響であることが察せられてきます。私は「正の感情」の過度な持て囃しが一般化してしまった頃から、むしろ心を病む人が増えたり、自殺者も増えたり、巷を騒がす凶悪犯罪なども増加傾向に入ったのではないかと推測しています。

 

魚たちに対して「暗い海で過ごす奴なんてダサい連中だ」「今どきは明るい陸地を駆けたり、大空を舞ったりしてこそだ」と、海鳥たちが執拗に煽動して、進んで砂浜に打ち上げさせては、カンカン照りの太陽の下、必死に跳ねさせ続けているようなおぞましい光景を連想します。魚たちは確かに楽しい気もしているが、いやどこかおかしいとも思っている。しかし、「皆やっているから」と言ってやめようとはしない。そうして"踊らされている"内に、弱った個体から順番に、海鳥たちに喰われてゆくのかも知れません。

 

ここで改めて、諸々の負の感情を重く愛でて、我が身に於いても敢えてこれを深く味わい、使いこなすことこそ、現代の日本人が喪失してしまっている心の深さ、そしてそこから来ていた「古来の霊力」とでもいうべきものを、再び呼び覚ますきっかけになるのではないかと、物事には疎いながらも何となく体感されているこの頃であります。