ひきこもりの作法

一本、また一本…集めた後ろ指の数はアイドル級。悩み多き某ひきこもりによる孤軍奮闘の日々がここに。

ひきこもりと心の支柱

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突然だが、諸君はこの諸行無常の世界の中で

いかにして正気を保ったまま生き延びておられるだろうか?

 四季折々の変化よりもよっぽど短い間隔で

巷をにぎわす報道は日々移り変わり、準じて人々が口にする話題から

ネットまで含めた風潮や、娯楽コンテンツまでもが忙しなく更新され続ける。

 

環境と同様にして、我々身体の「体調」というものもまた

前日の睡眠時間によっては快不快がまるごと逆転したり

食生活のブレや、ちょっとした出来事でさえ気分を変調させてくるような

非常に不安定な仕組みとなっている。

一説では腸内細菌のバランスや、脳内物質の量が

根性論なんかよりもよっぽど人の精神を掌握しているだとか。

 

そんな中で、安定して自分らしくあること。

自分なりに正気の状態で居続けることは、いかにして叶うのだろうか。

 

一般的には、自身が会社や世間から受けている評価、または家庭や恋人を担う責任感などが、色々な状況変化にも屈さぬ心の支柱と形を成して、自身の方向性を常に一定へ保ったり、いざという時には本来の自分へと立ち返らせてくれる作用をもたらしてくれていると思う。そうした機会から隔絶されているご存じひきこもりや、根っから自家栽培派だという人の場合も、自分なりの強い「信条」であるとか、また特定宗教への深い「信仰」だとか、抱き続けている「夢」とか、ともかくそうした自己を保つための心の支柱が重要になってくるのが古今問わぬ人の世の生き方のコツだと考えてみた。

 

変動し続ける世界に於いて行動指標となるものが「心の支柱」だとして

それほど重要なものにも関わらず、現代では学校で教えてくれることもなければ

各々が自然界に見出せるほど解放的な社会システムでもないし

核家族化という名の実質"家庭閉鎖"によって、いわゆる長老の金言も届かない。

親もまた子育ての世界においては「ド素人」「こども」であって

だからこそ近隣住民が一丸となり、子を村の宝として育児参加していた世界は消えた。

勿論、それもそれなりの苦悩はあったはずだが

近年で増加の一途をたどるコミュ障や発達障害問題を目の当たりにすれば

昔の方が、今よりも遥かに健康的なシステムであったように思える。

まとめると、一見して自由なようで要所では硬く制限が掛かっており

なおかつ自己責任も重くのしかかってくる、実に理不尽な時代ではないだろうか。

 

 さて、そんな逆境に立たされ続ける我々現代のひきこもりだが

ただ絶望してばかりもいられない。

(悲観に染まれば免疫システムも低下するのでNG)

俯瞰すれば、人類史には時代ごとにそれぞれ種類の異なった苦悩が存在しており

我々もまた、この時代に生まれたからこそ味わえる時代ならではの苦難と対面している。

それらはリアルタイムで味わったものにしか真にわからないもので

体験的な価値もたしかに保証されていると言えるだろう。

 

繰り返しになるが、世の万象は刻々と移り変わってゆくものだから

そこで揺るぎない「心の支柱」を携えておくことで自己を補強できる。

自身や、世界全体のプラスとなり得るものであれば

それはどんなものでも良いと思う。

もっと簡単な言い方をすれば「生きる意味を見つける」となるだろうか。

 

コンナ記事を書いている私自身も含めて

それらがまだ見つかっていないという同志は

まずは「世界の展望を果たす」というところを意識してみてはいかがだろうか。

 

例えば我々の生きる世界を一つの動物園で例えるとして(例えはややアレだが…)

園内の一番高いエリアから展望してみて初めて「あの場所に行ってみたい!」

という感情が自然と湧き上がってきたり

「あっちには食事スペースがある、そういえばお腹が空いていた!」なんて

ようやく次の目的を見つけることが叶う。

「生きる意味が見つかっていない状態」とは即ち地図も無く、園内の全貌もわからないまま、ただがむしゃらに同じ空間を往来し続け「せっかく来たのに、ここには何もない…」なんて鬱々としてしまっているような、そんな虚しい状態なのだ。

 

逆に考えると、この世界にまだ何も見いだせていない人というのは

今後いずれかのタイミングで一気に生き方が変わってくる可能性を秘めている。

園内の子供が遠くに居るゾウの姿に気付き、嬉々として指をさす最初の瞬間のように。

そうした瞬間からきっと、あなたの視界は色彩を増し、人生は輝きを取り戻してくる。

「現在自分が知っている世界だけが全てではない」

生きた歳月が重なる程に錯覚によって見えなくなる真実も定期的に思い出しつつ

そのか細い足のわずか一歩分でも景色を動かし

いつかは世界の展望を果たして欲しいと切に願う。

 

私たちは皆、この世界を視て、聴いて、嗅いだり、あとは肌を通して感じたりできる。

それはつまりこの世界から存在と知覚を認められ、望まれている証であって

私たち個々の存在は、社会とか立場以前にそもそも現実世界によって認められている。

 

人間がこうも日々いろいろな物事を考え、悩み、感じる能力を持っていることには

一体どんな意味があるのだろうか?

 

我々が「生きる意味」を探すことと同様に

「生きる意味」もまた、遥か昔から我々を呼び続けているのかも知れない。

 

…なんて、神秘ぶって締めようと思ったが、書いた後にだんだん恥ずかしくなってきた。

最近夏バテ気味のせいで意気地がないらしい。

 

変動する環境や体調だけでは心もとないので

何かもう一つ自己を補強し、またいざという時は立ち返れる「心の支柱」を持つことが

激流のように移り変わるこの世界を生き易くするコツなのではないか。

今回は主にそういうお話しだった。

冷静に見返すと平凡なことしか書けていない恥ずかしさもありつつ

読んだ人が少しでも元気を取り戻せたり、思考の起点となりえれば幸いだ。