ひきこもりの作法

一本、また一本…集めた後ろ指の数はアイドル級。悩み多き某ひきこもりによる孤軍奮闘の日々がここに。

ひきこもり不動禄vol.7「紙とペン」「再接続」「バイタリティ∞」

紙とペン

この文章は紙に書いています。アナログで文字を書く習慣などは学生であった十年以上も前を最後にもう途切れてしまっていましたが、この物理のペンと紙を用いて綴る感覚は身の深くにまで染み付いていたようで、意外にもスラスラと書けています。

 

特に漢字などは全てキーボードの変換キーひとつで済ませていたものですから、ごく日常的なものであっても、シラフではその複雑な形状を思い出せないだろうとばかり思っていたのですが、これがまた意外にもスラスラ書けてしまっているので、人間の「脳」という器官の優秀さについて、改めて感心させられています。電子画面で日頃から眺めている限りであっても、漢字とは実はちゃんと身に染みてくるもののようです。その証拠に、学生時代には碌に書けもしなかった筈のものまで、まるで在りもしない記憶を再生するかのように、指先が躍ることにただ身を任せているだけで、こうも白紙の上に次々と展開されてゆきます。

 

「紙に書く」というこの懐かしい感覚が、私はやればやるほど愉快になって参りました。或いはこれこそが、私が無意識のうちに渇望していた脳の情報刺激だったのでしょうか。こんな単純な思い付きの試みが、私の乾いた日常に「生きる実感の雨」を降らしてくれているようです。もうしばらく中身の無いことを付け足してこの感触を楽しんでいたいところではございますが、あんまり冗長になってしまっては文章趣味の端くれとしても何なので、この辺りで。

 

再接続

山道を歩いていると、しんと静まり返った薄暗い空間はやはり不安を煽ります。

視界の一面に樹木があり、空も枝葉でほとんど覆われている。踏み出す度に、降り積もった枯れ葉がシャリシャリと擦れる音。踏んだ枝のパキッと折れる音。自身の息遣いさえ意識させられる静寂。あらゆる自然の形象。次第に私は、自身の頭や体から、何やら管(くだ)のようなも伸びて行って、目にする「自然」とくっ付いてゆくような感覚が起きてきました。湧き起こる不安と遠方の木々がこちらを覗く顔とが重なる。地面を踏みしめる足元の光景が胸中に渦巻く不満や怒りと重なる。歩き続ければ疲労を感じ、呼吸が荒くなる。しかし辺りは変わらず静まり返っていて、私は冷静に警戒をする。ふとすれば物陰から熊や幽霊でも出てくるのではないかという不安に駆られる。その不安感こそ街には無いホンモノのように感じられて、久々に味わう「ホンモノの不安感」に安堵する。「生きている」という実感。あらゆる感情が自然を通して全身から吸い取られてゆく。まるで空間全体が一つの体になって、感情が循環をし始めたかのように。流れ出た感情が戻ってくる頃には、それは「生きる決意」への浄化されて胸に流れ込んでくる。本当は不安も絶望も孤独も怒りも、正しく自然と繋がっていれば全て楽しいものなのかも知れない。私は「世界」と久しぶりに接続される感覚を味わい、そんな風に思わされました。これが、世界。もはや現代では「現実世界」に辿り着けるのは限られた一部の人間だけになってしまったのでしょう。生きることの標準感覚は何処にあるか? 即ち、世界とは何処にあるのか? それを自然界に見出した私は、決してこの感覚を忘れないでおこうと噛み締めました。現代では、自然の上に築き上げた無機質な科学文明の楼閣によって、数々の建前と共に有無を言わさず善であると説明されるそれは、一見して人々を守る体裁を取りながらも、むしろ人々を総じて隔離させ、「現実世界」との接続を喪失させるに至ってしまった。あまつさえ、人々は自ら進んで「現実世界」を放棄し、自壊が始まっている。そんな風にも思えています。仮にそうであれば、まだ正気の残る一部の人間たちは、純然たる生存技術としても再び「現実世界」との接続を果たし、あくまでも人間であることを守ってゆかなければなりません。文明が発展としたと説明されているのに、人々が生きる実感を失ってゆくのは何故か? 病んでゆくのは何故か? 自殺してゆくのは何故か? 答えはもはや、明白であるように思えてならないのです。

 

バイタリティ∞

私は引き続き「サイト・ブログによる広告収入」といった副業の世界に挑戦しておりますが、しのぎを削り合う小~中規模のライバルたちを見てみてみましても、彼らは文章は勿論のこと、その他にも写真や動画、生放送に至るまで、日々沢山のコンテンツを送り出している方が多く、その上、なんと外でもサラリーマンとしてバリバリ働いているという人がほとんどなので、その溢れ出るばかりのバイタリティには腰を抜かす程驚かされています。

 

しかも恐ろしいことに、彼らは「数うちゃ当たる」式に低品質なものを乱発しているわけでは決してなく、高いクオリティでそれらを継続して送り出し続けているのです。

一体何をすればそんなに元気で活動的な人間になれるのでしょうか? 果たして彼らは、いつ休憩しているのでしょうか? 一体何処の施設で改造人間にされたのでしょうか? 私なりにもこれまで様々な健康習慣を自ら試し、なるべく人体が活気づくように工夫をしてきたつもりではあります。その甲斐あってか、知人にバイタリティを評価していただけることも稀にあり、これは健康を目指して歩んできた甲斐があった…と喜んでいたのですが、副業勢のバイタリティは軽くその3倍ほどを行っているのです。

 

「そう、偉いわね。あと3倍くらい頑張れば、社会人に届けると思うわ」

 

以前、YouTubeに投稿した動画にこのような台詞を入れましたが、半ば冗談で作った筈のこれが、実は何ら誇張もなく適切な表現だったのではないかと思えば少し眩暈すらしてきます…。特に私はひきこもりの中でも専門的な知識や学歴といった長所を持たず、ただがむしゃらに足掻いてきたような人間なので、冷静に考えると常人の3倍くらいは努力をしてゆかねばならない気もしてきます。

 

勿論、ただ発信量や行動量がやたらに多ければ良いというわけでもなく、質の洗練を心掛けたり、発信することの意味を常々考えてゆかねばなりません。

こんな時、もしも私の傍らに超常的な存在でも居たとすれば「その劣等感こそ生物の美酒よ。とくと味わい、超越せよ…」とでも静かなる激励を浴びせかけてきそうです。それを聞いた私は、膝から崩れ落ちそうになるのを寸でのところで持ち堪え、再度両足に力を込めてはこう呟くのです。「然り。この絶望感こそ我らが"遊び"の本懐ぞ。いざ死地にて遊び、果てに超越せん…」と。ちなみに、ビジュアルはのび太くんで想像してみてください。よろしくお願いいたします。

 

この退廃の時代をなおも生きてゆくコツは何か? そして、我々が搭乗するこの「人体」という超古代文明の技術は、一体どうすれば使いこなせるのか? 隠し機能は何処にしまわれているのか? 忘れ去られた必殺技は? 隠しコマンドは…? ちょっとおかしなひきこもりによる、探究の旅は続きます。