ひきこもりの作法

一本、また一本…集めた後ろ指の数はアイドル級。悩み多き某ひきこもりによる孤軍奮闘の日々がここに。

ひきこもりと身体のサイン

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 ひきこもり生活が長くなると

精神面はもちろんのこと、肉体面にもさまざまな不調が起きてくる。

健全に働く社会人でさえも妙に病気が多い現代なので

隔絶されて、動きも少ないひきこもりであれば尚更のことだろう。

 

心身いずれかに不調があれば素直に病院に行くのが一般常識だが

それが筆者のように拗らせたひきこもりになると厄介なことになる。

病院という空間がそもそも致命的に嫌いだし、関わるのも億劫で堪らないのだ。

そんな赤子じみた幼稚さの、しかし純心の「いやいや」を拗らせて

よっぽど致命的な外傷を除いては、基本的に病院に行かない生活を続けている。

 

「"病気"ってそもそも何だろう?」

本やネットを通して色々な医療者、識者の見解に目を通す内に

筆者はそんなことを考えるようになった。

今一度、胸に問いかけてみて欲しいのだが

読者のみんなにとっては「病気」とは何だろう?

現代の一般論では「病気=それ自体が悪」として扱われがちなのは確かだと思う。

 

ここで是非ご紹介したいのだが

人体に起きるこの「病気」という不思議なシステムについて

かつて二人の研究者がまったく相反する意見同士をぶつけ合ったとされている。

一つはルイ・パスツール先生の唱える「細菌理論」

もう一つはアントワーヌ・ベシャン先生の唱える「細胞理論」

 

「細菌理論」とは即ち、病気の原因を"身体外"に見据えるもので

人間は外からやってくる細菌によって、病気に罹るという理論。

 

「細胞理論」とは、病気の原因を"身体内"に見据えるもので

体内環境が乱れたばあい、日頃は人体を助けている常在菌たちが異常な働きを

起こしてしまい、それが病気の原因になっているという理論。

  

ざっくり紹介するとこんな感じだ。これらの対照的な理論はあくまでも「病気とは何か?」という身近でありながらもなかなか感覚的に掴めないものを改めて考えてみるきっかけとして提示したものであり、両理論の子細と顛末についてはここに書かれてあるより本当はもっと奥深いのだが、本記事では割愛させていただく。

 

「私の細菌理論は間違っていた。細菌を取り巻く環境が病気を左右するのだ」

というパスツール先生の遺言で締めておこう。

 

他にも「病気」というシステムについて思考が広がる材料としては

西洋医学東洋医学の対比や、排毒や人体の備える自然治癒力についてなど

大まかに目を通してきたつもりだ。

 

(小ネタだが、東西の思想の差については医学にはじまり自然観の違いなど繋ぎ繋ぎに探っていくと、人種ごとの特徴や思考のクセまで見えてきて面白い)

 

さて

ゴチャゴチャとっ散らかしてしまったが、色々あって行き着いた筆者なりの病気観としては何よりも、「病気は環境不良を知る為のサイン」ということだ。

そもそも、「病気になって症状が起きる」という現象はある程度高度な生物のみが備える、特殊能力の一つでもあると思っている。低次の生物の場合、ひとたび環境との不和が起きようものなら、「病気」という過程すら挟まずにそのまま死滅してしまうものだからだ。

 

そんな感じで、いうなれば「喉の渇き」や「空腹感」の

延長線でもある「病気」という名の"サイン"。

 

私たちは日々、肉体的なものから精神的なものまで含めて日々多様な

"サイン"を受信しているものだと思う。

 

手ごろなで例を挙げるならば、耳が渇けば音楽で潤し、言語野が渇けば本で潤す

人肌恋しさにダイヤルを回し、秘密欲しさに罪を重ねる。(おいおい…)

 

もはや恒例の、道草を食いまくってようやく一番話したかった話題に入るが

つまり病気症状として現れてくるものは問題解決を促すサインであり

我々はその声へと真摯に耳を傾けた方が良い。

病気そのものが悪なのではなく、それ引き起こす環境や条件が悪なのである。

サインを辿り辿り、「これが悪因だったか!」と見付けられた時は達成感があるし

そうした作業によって自身に起きる数々の不調を解決してきた経験がある。

例えば肌の特定箇所が荒れるとすれば、その部位に接触している材質を疑えるし

原因不明の身体的な怠さが起きている場合、ぼんやりと「食べたいもの」が思い浮かんできて、その食べ物に含まれている栄養素がまさに欠乏しているのが原因だったりする。人間の身体とは恐らく、そんな風にいかなる状況に於いても自力で治そうと努力するし、自力で不可能な場合は我々の心に直接訴えかけてくるのではないか。そんな風に感じられてならない。なんだかそう考えると、私たちは「自身の肉体」というもう一つの生命体との共存関係にあるような、不思議な心地にもなってくる。

 

身体的な"サイン"の重要性についてを大方説いたつもりだが

ここからは"もう一つの厄介な問題"についてお話ししようと思う。

ちなみに、病気から病気未満の小さな身体の声までを含めて

この記事では便宜上"サイン"と表記しておく。

 

 

 "もう一つの厄介な問題"

それが何なのかというと

他ならぬ、この刺激物に塗れた現代環境だ。

食べ物やお菓子の味付けは過剰なまでに舌を刺激する添加物で塗装されており

味覚は破壊され、素材の風味や、本来の味を楽しむ人は大幅に減っている。

そしてそうした構造は物質面にとどまらず、精神面にまで及んでいるのは

つまり、飛び交う情報たち、娯楽たちも同様だと言えるからだ。

とにかく人の目を引くように、刺激が強いようにと添加物のカタマリみたいな娯楽で溢れているのが現代だ。しかしそれらも一つ一つをよく紐解いてみる、と本質的には極めて低品質だったり、それどころか生活の質を下げてしまう毒物だったりもする。数クリックで欲求を刺激され、満たされ、もっとあくどいものでは市民間での敵対心や憎悪を助長したり、社会や対人に恐怖心を植え付けるものもある。

 

そんな感じで食べ物から飛び交う情報までもがとにかく刺激物だらけなので

妖精の如くか細い声である"サイン"は埋もれてしまいがちだ。

或いは、完全に蓋をして殺してしまっている。

世間全体のゴチャゴチャした濁流に振り回され、それらにばかり意識を注いだ結果

自分自身の声を聞けなくなり、増々不健康になっては本末転倒だとは思わないだろうか。

先ほど挙げたような「サインの受信→問題解決」という人体に用意された黄金式を

失わぬ為にも、慢性的な不調、または不幸感に苛まれている人であれば尚更

心の水面の静まった状態で、自らの身体の声に耳を澄ましてみるべきだと思う。

 

「自分は今、何を必要としているのだろうか?」

「このモヤモヤとした感覚の正体は、一体何なのだろうか?」

そんな風に問いかけてみることも、また有効かも知れない。

 

以上、今回もほぼ偉大な先輩方からの受け売りから成る記事だったが

筆者自身がこれらのヒントによって実際に解決策が見えたり、救われた経験があるので

他の誰かにとっても生活改善のヒントにもなるかも知れない…

ということで、放流しておく。

 

それでは、どうか皆様、暑さに負けずよい夏を。