ひきこもりの作法

一本、また一本…集めた後ろ指の数はアイドル級。悩み多き某ひきこもりによる孤軍奮闘の日々がここに。

ひきこもりのとある一日

死んだように陽が差さない自室、子供部屋の都合上

リビングにうち出でて、カーテンに手を掛ける

程よい重さが掌を伝い、レールの擦れる音が響くと

そこには目が眩むほど快晴の空があった。

 

休む間もなく照り付ける日光の槍に全身を貫かれながら

肌はもちろん、着ている服さえも急激に熱を帯びていくのを感じる。

この有り余るほどの熱に焼かれることで

冷たくなった魂の方にもようやく血が通い始めるような錯覚がして

そんなことが妙に心地良い気がした。

「日光を浴びることによって、身体には物理的に有益な変化が起きる」

そんな話を思い出しながら、私はあえて、人通りの多い路地へと足を向かわせた。

 

気付けば無心で一時間は歩いていたと思う。

流石にこのご時世、行き交う人々はその大半がマスクを着用しており

表情が見えないだけに、普段よりも更に異質な存在であるという印象を受ける。

マスクを着けた人々の中にも、一定の割合で素顔も混じっていた。

人込みという程の量で無ければ、密室環境でも無かったので

対人恐怖のリハビリも兼ねて、私は敢えてマスクを外して歩いてみた。

私は素顔になった一方で、すれ違う人々のほとんどはマスクで顔を守っている。

そんなある意味不公平(笑)な状況が出来上がったものの

かつて醜形恐怖、視線恐怖らしい症状が強かった時ほどには抵抗感が無い。

こんなことを語れるような年齢でもないかも知れないが

恐らく私は加齢と共に少しずつ感覚が擦り切れて

前程には気にしないことが増えてきた(笑)

 

滲んだ汗がシャツを部分的に濡らしていく不快感を覚えながらも

「学生時代もまさに、こういうのが夏だったな…」

なんて、変な懐かしさも込み上げてきている。

参照される記憶が"学生時代"にまで遡ってしまうのは

流石はベテランのタイムトラベラー、ひきこもりである。

流れる汗と共によく血流も巡るせいか、日頃自室で膝を抱えている時にはあり得ない

量と速度で思考が回っていることに気が付いた。

なんとなく第三者感覚で俯瞰していると、最近得た情報を脳内で整理整頓したり

タールの海に沈んでいたスーツケースを釣り上げて

ようやくその中にあった自分の感情、欲求をハッキリと自覚したりしていた。

つまり私は、一般人には当たり前の「自己整理」に必要なだけの頭の回転さえも

確保できていなかったのかと、苦笑する心地になりもした(笑)

 

これといって読者の期待に応えるようなオチも無い

ごくごく平凡なこどおじ日記だが、どうかお許し願いたい。

引きこもりのこどおじといえば

何につけても"オチ"の財布がスッカラカンなことが相場なのである…。

 オチの無い回想を走馬灯のように繰り返す日常を生きているのさ。死んだように(笑)

 

 ただ、今日の散歩中を通して、一つだけ漠然と頭の中で考え続けていたことがある。

思考に熱が入っているリアルタイムではかなり面白いものに感じていたが

散歩が終わってこうして記録を付けている今になっては

さほど大したことにも思えないが…。

ただ、せっかくなので湧き出た思考の"供養"感覚で記録しておこうと思う。

 

 

散歩中に得た、とある思考の断片

 

ひきこもり全般、「足りないのではなく、むしろ"足り過ぎている"」ことが苦悩の原因になっているのではないか? 私は突如として湧き出た、そんな思考に浸っていた。誤解が無いように念入りに説明しておくと、これは決して金銭的なことや、肉体・精神的な気力のことを指しているのではない。むしろそうしたものは、ひきこもりであればほとんど欠乏状態にあるだろうから…。

 

では、「足りないのではなく、むしろ"足り過ぎている"」というのは

一体何のことを言っているのか?

と、いうと…

それはズバリ、「思考回路」だ。

つまり、社会に適合した健常な人々なら、まず持っていないであろう

高負荷の"思考回路"をどこからか有償購入して(或いは植え付けられて)頭に抱えており

そのせいで、健常者がたった"1"の労力で解決することに"5"とか"6"の労力をもぎ取られていたりするのではないか?ということだ。これは私がかつて、視線恐怖症らしい状態によって「ただ外の道を歩くだけ」という一般人には超絶楽チンなことに対して、数倍の労力を支払っていたことも、こういう発想の元になっていると思う。ただ歩くだけで高負荷を強いられるなんて、ブラック企業すら白んで見える悪辣な搾取に他ならない。

 

さて、そうした思い付きの仮説に沿って勢い任せに解釈を進めていくと

ひきこもりに必要なものとは、何かを得ることではなく、むしろ「放棄すること」だと言えてくるのではないだろうか。勿論、もっと厳密には精神療養には段階が存在しており、まだそうした発想に向かうべきではない同志達も居ることだろうから、こういうのに少しも共感できないという場合はどこぞのオッサンの珍味な戯言として軽く笑い飛ばして読んで欲しい。

 

これはある意味男性的な発想かも知れないが…

聳え立つ雄大な山々や、どこまでも続くような海の深さ。

星々が渦巻く夜空の巨大さに、日常の些細な悩みごとさえ吹き飛んだりする経験が

一度くらいはあるだろうと思う。これはつまり、顕微鏡を何時間もぶっ続けで見ていた研究員が、ハッと我に返って「コチラの世界」に戻ってきて、同僚の顔をみて安堵のため息をついたり、たった一つの机の広さに気が遠くなる心地がして笑ったりすることにも似ていて、つまり人間とは、その向け続けている視線の先がいつしか自分の「現実世界」となり、色や形、大きさもろとも様々に変貌を遂げていく性質がある。例えばもう一つ、「ネットの世界」という話を例にとってみても、ネットの世界とは一概に指せども、それはそれぞれが個人的に見ているサイト、ブックマークに依存するものであり、人によってネットの広さ、住まう人々の気質は全く違って見えているのである。私は学問には弱いが、こういうのは恐らく認知の分野の話かも知れない。「現実世界」とはそのように、各々の認知によって目まぐるしく変貌を遂げていくものだと言える。

 

しかしもう一つ、ヒトとしてあるべき「現実世界」というものが存在している感触も、確かにする。「社会」という規範も実はかなり限定的な認知に過ぎないので、ホンモノの「現実世界」とは自然の豊かさや、空の広さを思い出して"ハッとする"あの感覚にこそ、辿り着くヒントがあるのではなかろうか…。そんな風にも感じる。我々は本物の「現実世界」に辿り着く為にも、無駄に得てきた狭小的な「思考回路」を放棄し、認知の正常化を進めてこうではないか。本物の現実世界の方では、きっと自分も他者も今よりはるかに広々と輝いているはず。そんな割と本気の夢物語を投げかけて、今回は記事を締める。