ひきこもりの作法

一本、また一本…集めた後ろ指の数はアイドル級。悩み多き某ひきこもりによる孤軍奮闘の日々がここに。

ひきこもり不動録Vol.11「金色の朝」

この頃は9時台の起床が基本でしたが

今日に限っては珍しく6時台に起床しました。

 

寝ぼけ眼で部屋を見渡して、何やら金色の光が部屋中で踊っていたことに気が付きます。そういえば昨夜は夜風が涼しかったので、窓を開けっぱなしにしたまま寝ましたが、そのせいで朝風にカーテンが揺らされており、差し込む日光を遮ったり解放したり、小気味よく繰り返していたことが揺らめく光の正体だったようです。私は謎が解けた後にも「天使が歩き回っているような光景だ」と、しばらくの間は感心しながらそれを眺めておりました。そして、こんなことはこれまでに何度かあったなと思い出されてきます。日常で出会える細やかな喜びだと思いました。

 

朝に住む天使に起こされて、何だか気分の良かった私は、久しぶりに早朝の散歩をやってみようという気になりました。近年の9月といえばまだ暑さの盛りではありますが、早朝に限っては前日の夜気のお陰か、意外と涼しい風が吹いていたのです。

 

手早く身支度を済ませて家を出るときの、新鮮な空を覆う日光の清々しさといえば印象的です。日中に見るあの暑くて億劫な日光とは違い、黄金がかってキラキラしています。光の質が一味違うのです。朝起きて活動すべき生物の本能がそのように見せるのか、或いは早朝の日差しには本当に幾らかの祝福が含まれているのかも知れません。

 

早朝は静かで、風の音や鳥のさえずりがよく空間に通ります。心なしか普段よりも呼吸が楽であり、今よりも遥かに心身に活力があった小学生時代の心地が、僅かな瞬間だけ戻ってきたような気もしました。風に揺られる木々の軌道は美しく、その非人工的なランダムの連続が(或いは全てが"大いなる意思"の計算通りなのかも知れませんが)、己の停滞した意識を洗い流してくれているようでもありました。

 

いつもの散歩道を歩いていると、一羽の大きなアオサギの姿がありました。そういった鳥類は特に警戒心が強く、遠目にも人を認識すればたちまち飛び去ってしまいそうなものですが、幸運にもそれは柵を隔てた10メートルほど先の湖の中で立ち尽くし、あの独特で不思議な目つきして、一体に何処に向けられているか判別しがたい刮目を続けていました。私はそれを眺めながら改めて、アオサギとは面白い意匠をしているなと感心させられたものです。あのいかにも器用で冷たそうな細長い嘴と脚を持ちながら、一方で胴体は羽毛に覆われてフサフサしています。アオサギという名が付くだけはあって、所々に青い毛が纏まって生えており、それには先住民族の戦化粧を思わせる風格と美しさがありました。そして大きな翼を見ているうちに、まるで菜箸に命が宿って立派な翼を得た付喪神(モノに命が宿って妖怪になったもの)のようにも思えてきました。

アオサギはやはりこちらを警戒しているのだろうと思っていましたが、大事の目的は別のところにあったようです。そのうちそれはスッと水中を嘴で突き、巨大なカエルを持ち上げて見せたからです。恐らく、あの大きさからしウシガエルではないでしょうか。圧倒的な力の差を前にしてもはや抗う気も起きないのか、或いは目の前の世界が一変したことに理解が追い付かないのか、巨大なカエルはピクリとも動かぬままに、両手を上げて"降参"の姿勢をして、か細い嘴の先にぶら下がっております。あの菜箸は、見た目以上に丈夫なのだろうとまた感心させられました。

そしてアオサギは、そのまま自然界の残酷な美学を10秒間ほど誇った後、やがて大きな翼をはためかせ、細いフォルムには不釣り合いな大きさの獲物をぶら下げて、何処かへ飛び去って行きました。あんなに大きくずんぐりしたのを咥えて羽ばたけば、幾ら上手な菜箸と言えども、流石にポロっと落としてしまうのではないかと冷や冷やして見守りましたが、杞憂に過ぎなかったようです。むしろ嘴の先に接着剤で固定されたかのようなビクともしない安定っぷりで、やはりあれは見た目以上に丈夫で器用なのでしょう。

 

日頃から私が憧れる「自然の美しさ」を、いつもとは少し違った方面から味わわせていただいた気がしています。