ひきこもりの作法

一本、また一本…集めた後ろ指の数はアイドル級。悩み多き某ひきこもりによる孤軍奮闘の日々がここに。

ひきこもり不動禄vol.5「文章に晒される心」「Twitter(X)への敗北」「人間に成る方法」

ごきげんよう、同志。

 

最近掲げている"脱Twitter中毒"の目標もあり、日頃はダラダラとtweetしているような内容を、申し訳程度に洗練させてブログ記事としてまとめてみました。

 

私はこれまで長文でだいぶ発信を続けてきたこともあり、読者の方もそろそろ見飽きて来られたのではないかと、内心切なくなっております……(笑) しかし、辛うじて暇つぶしにくらいはなれるかも知れないので、宜しければ手に取られてみてください。

 

目次

 

文章に晒される心

「文章は体調に左右される」という話を聞いたことがあります。

直近で個人的に落ち込む出来事があったのですが、その後に書いてみる文章といえば本当にどれもおかしくなっていました。言葉と言葉のつなぎ目に違和感があったり、主張の軸がブレていたり、文法的な誤りが多発していたのです。「目は口程に物を言う」とは昔から言いますが、文章も同様にして、書き手のその時々の気分や体調が如実に反映されてくるということを、改めて思い知らされた次第です。私としてはいついかなる場合にも平常心を保つ技術…のようなものをこれまで自己流で磨いてきたつもりでおりましたが、まだまだ修行は足りていなかったようです。

 

文章に癒される心

しかし、たとえ色々とおかしな文章を書いてしまった場合でも、「書く」ことによる精神の浄化作用は計り知れないようです。ペンを握って受ける断続的なさざ波の如く感触、或いはキーボードを叩く演奏の如く感触の爽やかさ、頭の中で混雑した情報を「文章」という形に整理整頓し、自ずと答えが見いだせてくる自己セラピー、感情を発露させるという行為そのもの、またはスピリチュアル的な"言霊"の力などなど、「書く」ことで精神が浄化される現象は何が決定的な要因になっているのかは、実践している本人でさえも今一つわかっておりません。しかし確かに身を以て実感されるのです。或いは、それら全ての効力が複合的に私を癒してくれているのかも知れません。

 

Twitter(X)への敗北

「決して中毒にはなるまい…」と固く誓い降り立ったあの日の決意もむなしく、近頃はふと時間についついTwitter(今はX)を閲覧してしまっている自分がいます。繋がりがある人らの近況を知る為だけに使えているならばまだしも、タイムラインに更新が無い時でさえも、自分とは直接繋がりの無い投稿(ツイート)を見漁ってしまっています。そしてダラダラと時間が過ぎていくのです。そもそもの話しですが、Twitterは短文が前提となる媒体であり、見ず知らずの雑多な投稿を読んでいたところで、本を読んでいる時の大きな衝撃だったり、記事を読んでいる時の深い気付きといったものがほとんどありません。たかだか、「ちょっと面白いな」と感心したり、何万リツイートもされている投稿がおすすめで目に入って「くだらないな」と呆れたりする程度です。でも、そんなのでも見続けてしまう私の心境としては、パチンコやスロットなどのギャンブルに非常に近いと思います。「もしかすると、今の自分が欲しい言葉があるかもしれない」「衝撃を受ける投稿があるかも知れない」「心の底から笑えるかも知れない」そんな期待に目が眩んで、もう一つ、もう一つ……と投稿を漁り続けてしまうのです。そうやって期待が叶うことはなどほぼ無く、恐らく一時間くらいを消耗させてしまっています。手土産はせいぜい「脳疲労」と「全く使わない情報の断片」くらいです。自分のことを、「確率でバナナが落ちてくるかも知れないよ」と教えられて、無心でボタンを押し続けている実験動物のサルと同じだなと思います。

 

兼ねてより、私にとって「人間」とは生物としての高みであり、「自分も人間になりたい」という憧れを抱いて、その高き地平を見上げ続けてきました。しかしまだまだ道のりは遥かに遠く、「人間に満たない愚かな実験動物」の域を出られていないようです。「早く人間になりたい」それが今の私の切実な願いであります。

 

人間に成る方法(やや長編)

最後に、人間に成る方法についてを考えてみようと思います。フランスの思想家パスカル氏による「人間は自然のなかでもっとも弱い一茎(ひとくき)の葦にすぎない。だが、それは考える葦である」という言葉を切り口にすれば、これは手っ取り早いと思っております。要するに人の最たる特徴が「考える」ことなのだと、この言葉は鋭く言い当ててくれているのです。

 

下等な動植物たちは、神経を持っていてもそのつなぎ目となる神経細胞を持たないとされています。故に刺激に対しての関所が存在せず、全ての情報入力は単純に通過してゆくのみです。単純入力による、単純出力。つまり「反射」だけで生活が成り立っているのであり、食欲が反応すればそのまま食らいつき、闘争心が反応すればそのまま殴りかかるわけです。刺激→行動といった経過が極めて単純なのです。そのせいで明らかに餌ではないゴミを食ってしまうことだってあるわけです。相手を殴って後悔する羽目にもなります。まさに延々とTwitterを見漁る私自身がそうなのだろうなと呆れさせられる次第です。

 

では逆に「神経細胞」を獲得した生命体は何が違うかというと「判断が出来る」ということです。どの刺激を受け入れて行動として採用するか、または切り捨てるか、そういった判断です。理性の高い人はこの神経細胞が多く、また活発であることが想像されます。そして重要な人間の特徴「考える」とは、この判断の更に一段階深みにある現象だと思われます。何故なら考えることで、刺激→高度の取捨選択のみならず、自然界にはあり得なかった全く新しい方法が生み出されたり、情報が高度に昇華されて「芸術」として現れてきたりもするからです。従って、私は「考える」ことをもっと大事にしなければなりません。考えて行動することが真に体得出来ているのであれば、Twitter中毒などにはならない筈だからです。

 

時に現代では「考えすぎてはいけない」または「完璧主義はダメだ」と警鐘を打たれることはありますが、それぞれ日本の先人らの思想を借りて反論させていただくと、前者に対しては「考えることで良くない結果に陥ってるとすれば、それは中途半端で思考停止させて、考え切れていないからだ。考え抜けば人は物事の答えは見出して、楽になる」、後者に対しては「人間として完全欲(完璧主義)はむしろ何処までも伸ばしてゆくべきだ。それに囚われて支障が出るというならば、それはそもそも完全欲ではない。何か単純で低次元な己の欲望に囚われている」となります。私もまさにその通りだと思います。

 

日常的に冷静に考える習慣を鍛えて、脳経細胞を増やしてはより活性化させ、胸を張って「人間」を自称できる高みにまで上り詰めたいものです。

 

おわりに

 

ただ正直に言うと、最近の私は「もう疲れた…」とか「やっぱり自分は無能なんだ」と弱音を吐きたい気持ちに占められてもいます。射撃な苦手なパターンで製造された"のび太君"が果たしてどれくらいマトモな人間になれるのかは、今後の経過を冷ややかに見守っていただければと存じます。こんなくだらない戯言を読んでくださる物好きで懐の深い貴方には非常に感謝しています。もし良ければ弟子入りさせてください。

 

 

 

 

 

note.com

自身で味わった"短文SNSの危険性"についてはコチラのnote記事により詳しく書いておきました。ご興味があれば。