ひきこもりの作法

一本、また一本…集めた後ろ指の数はアイドル級。悩み多き某ひきこもりによる孤軍奮闘の日々がここに。

ひきこもり不動禄vol.6「日々発信」

日々発信

ここ最近は自身が運営しているブログやサイトのいずれかで毎日何かしらの文章を書き、発信を続けられているという状況です。こういうのも以前であればせいぜい「一週間に一度」程度だったので、我ながら見上げた活力です。

 

特に文章力とは「書いた量」が物を言うともされています。今の私は書くことが特段苦になっているわけでもなく、むしろ自然に書いているという感覚ですから、良い兆候だと思っています。

 

振り返れば、私はこれまでに趣味としてはもうだいぶ沢山の文章を書き、発信を続けて参りました。その甲斐あってか、この頃は書いた文章について褒めていただけることも起きてきており、これは、キーワードとなる単語だけを羅列してPC前で頭を抱えていた当初には想像も付かなかった事態です。

 

もうかれこれ10年にも迫るほど長文を書く習慣を続けて参りましたので、「継続は力なり」を遂に我が身を以て体現出来たような嬉しさがあります。勿論、上を見ればまだまだ文豪の域には程遠く、図書館で本業の方々の書かれた書籍を手に取る度に、感心すると共に己の未熟さを噛み締めてもいるものですが、それにしても有難いことです。

 

土台となったもの(ほぼ思い出語り)

前項でも述べました通り、かつての私は「文章を書く」という行為がどちらかといえば苦手の部類であり、基本的な書き方についてもよくわかりませんでした。いざ書いてみようとしても、キーボードの上で指が呆けてしまって動きがありません。にも関わらず、こうして好きで長文を書くまでに至った発端を記憶の奥底から掘り起こしてみると、どうも始まりは「ネットゲーム」にあったようなのです。これは自分でも意外なのですが……。

 

高卒以降、ひきこもりになって幾ばくかの時間が流れ、やがて「人と関われる」を場所を求めて這いずり始め、行き着いた先が私の場合はネットゲームだったのでした。

 

幸か不幸か私が選んだのはコミュニケーション特化のものであり、すると当然そこでは「他プレイヤーと喋ること」が前提となってきます。しかも、温厚なユーザー相手でも無言の時間が続けばそれとなく理由を付けて去られたり、高圧的なユーザー相手であれば見下されておもちゃ扱いされることが日常茶飯事という、今のネットの雰囲気からするとだいぶ厳しい世界でした。自分の意見が無いと舐められることに関しては、現実世界以上だったと思います。それによって「意地でも発言しなければならない」という強制力が働いていたわけです。

 

ちなみに、当時はボイスチャットという文化があまり普及しておらず、マイクを所持しているユーザーは珍しいくらいだったので、全ての会話は「テキストチャットで行う」ことが標準でした。お陰で学生から主婦さんまで、皆揃いも揃ってタイピング上手で饒舌でした。今のようにマイクを使っているユーザーなどが居れば「歌え」だの「何か芸を披露しろ」だのとたちまちに取り囲まれ、茶化され続けていたものです。

 

率直に言って「彼らには逆立ちしても適う気がしない」。しかし他にそういった空間を知っているわけでもなかった私は、震える指でキーボードを打ち続けました。これは決して比喩ではなく本当に緊張で手を震わしながらタイピングしていたのです。震えなくなったのは、たしか1年くらい経ってからのことでしょうか。正確には覚えていませんが、だいぶ震えていた筈です。

 

周囲には何かを熱弁したり、瞬く間に人と打ち解けたり、荒らしとの暴言合戦すら楽しんでいるような強者揃いでした。キャラクターを可愛く着飾り、根暗な男子にも急接近、そしてあれこれと質問を投げかけ心を開かせて来る、所謂"ギャル"か"姫"風の女性ユーザーも結構な数おりました。彼女らの実際の性別はわかりませんが、その確かな華々しさには圧倒されて、同性相手でも手が震えていた私の緊張度合は「眉間に銃口を突き付けられた」級になっていたものです。

 

辺りを賑わす数々の秀才を眺めながら、私自身といえば現実世界でもそうだったのと同様に、なるべく周囲の様子を慎重に伺い、自己が希薄なまま、何よりも空気に同調することに徹しておりました。故に極端な排除は免れたものの、大方は空気扱いされており、印象の薄いユーザーだったと思います。その一方で私の心の中では「何か強烈な個性が欲しい」という欲望が、やがて野望へ、熱望へ……という具合に徐々に膨らんでいったのでした。

 

だいぶ話が逸れてしまいましたが、とにかくそのネットゲームの世界を占めていた「テキストを打って発言しなければならない」という圧が理屈を超えて私に作用してくれた確かな実感があるのです。1つ1つが短いテキスト会話と言えども、「塵も積もれば山となる」。数時間誰かと喋っていれば、ネット記事の数本分もの量になるのではないでしょうか。そして、苦心しながらも繰り返してきたそれらが、私の文章作成の土台を築いてくれたと考えております。

 

若年層の苦難

そのゲームも今はもうサービスが終了してしまいましたが、終盤の方となると私もだいぶテキストチャットに慣れてきており、今よりも遥かに拙い文章と人間性ではあったものの、あれこれと発言してはたまに笑いを取れるくらいにはなっていました。

 

我々人間は見知らぬ誰かといきなり声で会話をするよりも、文章で話す方が遥かにハードルが低いと思うのです。文章であれば考える余地も声に比べて多分に守られていますし、ログによって会話の流れも意識することも容易だからです。それに、ゲームであればキャラクター同士で向き合っている分、文字だけの無機質な画面を眺めているよりも遥かに「相手と会話をしている」感覚を練習できます。

 

かつて誰とも繋がれなかった私が救われた、テキスト会話で賑わう世界と、コミュニケーションへと背中を押してくれる一定の強制力。今の若い子達には恐らくそういった機会が存在しておらず、コミュ障改善の手段は昔よりもむしろ減っているのではないか……?と懸念されてきます。

 

今ではもうボイスチャットの文化が一般化してしまい、本腰を入れて人と向き合おうとする場合、ゲームでもアプリでも「知らない人といきなり声で打ち解けなければならない」という状況になっていると思います。非常に厳しい状況です。もしも私の時代もそうだったならば、私はもう人と関わることを諦めて"詰んでいた"ことだろうと思います。

 

パンデミックの影響も相まって、コミュニケーションに困難を感じる若者は今後これまで以上に爆増してゆくことが予想されます。また、既存の大人たちについてもコミュニケーション能力が年々低下していっているように私は感じられています。これが「あらゆるものは規範に沿わなくてならない」という近年のやや病的な社会風潮に原因があるのか、或いは発達し過ぎたテクノロジーの代償なのかはわかりませんが、個人としても何か打開策を考えてゆきたいところです。