人が新型コロナウイルスに目を向け始めたのはいつ頃だっただろうか。
たしか、それは昨年2020年の1月頃だったと思う。
新型コロナウイルス発祥地とされている中国武漢の映像がにわかにネット上で出回ったのだ。
映像の内容といえば…
何やらただ事では無いムードで佇む複数人の医師たち。
粗い画質ながらも彼らの冷や汗がはっきりと目に映るようでもあった。
彼らの一人が正気を保てず泣き叫びだすところで画面は恐怖の最高潮に。
他にも、通行人が急に意識を失い倒れる映像や
「四六時中休みもなく働けるわけがない」
「家族に会いたい」という旨を切迫した様子で訴える医師の映像もあった。
極めつけは、院内の通路に隙間なく埋め尽くされた大量の診察待ち患者の映像である。
そうした衝撃映像がネットの一部では出回ってはいたものの
一般にはほとんど認知されていなかった。
武漢肺炎(当時の新型コロナウイルスの呼称)なんて全くのデマ映像だとか
そもそも中国は衛生環境が悪いだけで、日本人へは影響が無いという楽観的な意見の方が目立っていた。
しかし、その手のものはいっそ過剰なくらい警戒すべきことは
個人的な経験でも、歴史上の事例を参照しても明らかだった。
しかしまあ、ネットで見聞きした情報と映像しか手持ちに無かったこともあり
「半信半疑」の気持ちも同時にあったのは事実だ。
実際の私の行動といえば、その手の「噂」や「陰謀」な話にも柔軟な相手に
"だけ"それとなく知らせる、或いは話題を振ったくらいなものだった。
「春節(いわゆる中国版のお正月)がヤバい」
警戒派の間ではそのような意見が頻繁に飛び交うようになった。
もしも大多数の中国人観光客が日本へ押しかけ、尚且つ武漢肺炎の実態が
映像で出回る"あのおぞましい光景"の通りであれば、取り返しのつかないことになることが明らかだったからだ。
私も彼らと見解を同じくし、固唾を飲んで状況を見守ることとなった。
そんな一部の警戒派の意見も虚しく、世間全体の風潮や
政府の対応はただただのんびりと、楽観的に流れていったことが印象深い。
武漢肺炎の話は他所にして、まるで何事も起きていない平和な日常であるかのように。
…
そして時は流れ流れて、現在のこの惨状にまで至る。
一連の流れを目撃してきた個人の感想としては
「やっぱり世間様とやらは当てにならない」 というものが大きい。
中国武漢で新型の、しかも明らかにただものではないウイルスが確認された時点で
先んじて警鐘が鳴らされていたにも関わらずこの有り様だからである。
実際にどの程度の被害が起きるかは未知数であるが、それにしても何の対策も無かったではないか。いやむしろ、未知数であるものに対してこそ念入りな対策が必要なのではないか。多少感情が先走った意見かも知れないが、そのようにも思う。
この件と同様に、"陰謀論(笑)"扱いで一蹴されたせいで危機への対応が遅れた事態は
歴史上山ほどあるのではないだろうか。或いは、まさに今のこの瞬間にも…。
どうも一般人とは何事に関しても過剰に楽観的で
そのくせ頭は硬く、あらゆる柔軟に可能性を想定できていないように見える。
その点、ひきこもり界の視野の広さと言えばお墨付きだろう。
何せ引きこもっているお陰で毎日忙しく働き回る社会人よりも思考的余裕があり、隔絶された世界で生きるからこそ、ある種俯瞰的に状況を見る冷静さもある。
様々な創作物に浸る時間も多いせいか、ぶっ飛んだ事態にも耐性がある。
両手に持て余した時間を駆使し、自分なりに知識を追求し始める。
社会人よりもよほど政治に明るいひきこもりが多いのも、そういうわけである。
いかがだろう。ひきこもりがまるで人類を陰から支える
シンクタンク(頭脳集団)に思えては来ないだろか?
…
そんな戯言はさておき、遂に日本に新型コロナウイルスの火種が着いてしまった時は呆然とした。正直なところひきこもりとして、否、少年心を忘れていない一人の人間として、「世に変化が起きる」予感とは大なり小なり胸を高鳴らせる。しかし今回の件については、当初から出回っていた武漢現地とされる映像、それから病状や後遺症についての噂があまりにおぞましいものであっただけに、そんなどころではなかったことを記憶している。一体どれだけの被害が日本にもたらされるか、そして目に見えぬウイルスの魔の手が自分や家族にも降りかかるかも知れない恐怖は、想像したくもなかった。
案の定、新型コロナウイルスは日本国内に於いても爆発的な広がりを見せた。
テレビからは日々緊迫したアナウンサーの声が響き渡り、加速度的に増えゆく感染者数が大々的に知らされ続けた。その頃にはもう新型コロナウイルスがもたらした"国民でも体感できる"最初の変化として「マスクの品薄」が起きていた。全国のスーパー、ドラッグストアからマスクの姿が消え、代わりに近所で「よくわからない中国人が高額でマスクを販売している」という話を聞いた。噂は本当だったらしく、親族が買ったという知らせを聞いては複雑な気持ちになったことを覚えている。
幸いにも私にはマスクの備蓄があった。
というのも、ウイルス騒動以前からそこそこ深刻であったPM2.5による大気汚染の被害を警戒し、濃度の高い日は欠かさずマスク着用をする習慣があったからだ。そして、これがまたひきこもり流のお節介というべきか、両親に対してもその危険性を説いていたお陰で、奇遇にも家には十分なマスクの備えがあったのだ。ひきこもりもたまには役に立つらしい。
そんなわけで、時は流れ流れて現在にまで至る。
今やどのお店に行っても「換気」という作業が見直されていたり
飛沫を防ぐための「ビニールシート」が張り巡らされていたり
各店の出入り口には決まって「消毒用アルコール液」が常備されている。
そしてマスク供給も安定したようで、外を歩けば誰しもがマスクで顔を覆っている。
小さな子供からお年寄りまで、老若男女問わずである。
日本は新型コロナウイルスと共生し始めた。
ふと、そのような感覚が頭を過ることもある。
ここに来て改めて考えることは
「新型コロナウイルス」とは結局"何者"なのか?
ということだ。
ある見解では、V漢ウイルス研究上の不祥事によって漏れ出したC国発の開発途中の細菌兵器だとか。
ある見解では、米大統領選で"ズル"を行う為にあえて大袈裟に騒がせた、郵便投票の為の布石であったとか。
ある見解では、風邪と大差ないウイルスだとか。そもそも存在しないとか。
ある見解では、人間に重要なメッセージを伝えに来た存在というスピリチュアルだったり。
またある見解では、各国のロックダウン、並びに半強制的に接種させられるワクチンの方に仕掛けがあり、むしろそっちが目的であるとか。
振り返ってみると、今日は新型コロナウイルス最初の発覚から丸一年が経った頃だ。
自然発生したウイルスが、気温や湿度を問わず年中活発に活動し続けることなど果たしてあり得るだろうか? どうもその点は素人なりにも違和感を覚える。最初に騒ぎとなった武漢にちょうどウイルス研究所があるという事実も非常に怪しい。懐疑的な考えに立つものとして、疑惑を二つに絞るならば…
- 新型コロナウイルスは人の手が加わった兵器である
- 新型コロナウイルス爆発的感染増加の報道の裏に、何か恣意的なものがある
このようにも考えられるのではないだろうか。
一体真相は何なのだろうか?
専用の機器でもなければ見えない「ウイルス」が肝なので、正直いって私も皆目見当が付かない。ごく一部の要人らはとっくに真相なんてわかっていそうだが、政界や利権と繋がりも持たない凡人向けに真実が公表されるわけがない。(現実がそんな甘く優しい世界なら良かったのだが…)
田舎住みが幸いしてか、とりあえず現時点では身近な人物が罹患したとか、亡くなったという話は聞いていない。しかし正体がわからないものが相手である以上、今後も最低限の警戒は保ち続けるつもりだ。
真相はともかく、新型コロナウイルスによって世間全体の、我々一人一人の生活が一変したことは誰しもが確認出来る紛れもない事実である。自粛=正義な風潮は、ひきこもりにとってはある意味人権が見直される好都合な名目でもあるのだが、しかし現実問題として国内全体の経済的打撃や、直接、或いは間接的にウイルスの被害に会う人々のことを思うと諸手を上げて喜ぶ気には到底なれないのである。
それから、このような事態を陰謀的な観点から推測することには、個人的には大きな価値があると考えている。単純に知的探求心を刺激してくれるし、わからないことが多いからこそ想像力が鍛えられる。騒動を俯瞰して眺めてみた際に、それによって「世界がどのような方向へ進んでいるか?」がまじまじと浮き彫りになってくることもある。
無論、個人的な陰謀論を他者へ無理やり押し付けたり、マウントを取るような行為は決して推奨されない。
重要な報告会や講演においてのみならず、現代人とは白日の下に晒された明確なデータのみで己がプライベートさえも窮屈に塗り固めてしまいがちだが、そんな現代でこそ暗闇にユニークな妖怪を思い描いたり、夜空の星を結んで物語を作ったあの時代の豊かな精神性を思い出して欲しい。人間性とは、むしろそうした世界観が育んでくれるものだ。
少し話が逸れたが、ひきこもり個人としては今後もこのような状況になった意味を考えたり、乏しいなりの知識を駆使して「危機」を「好機」に転じる策を練ったり、今でこそ出来ることをゆったり楽しんで行こうと思う。気負い過ぎて身体よりも精神の方が先にお釈迦になっては本末転倒だ。悩める同志たちにはどうか息抜きも大事にして欲しいと思う。
どのみち、この長い夜はもうしばらく明けそうにないのだから。