ひきこもりの作法

一本、また一本…集めた後ろ指の数はアイドル級。悩み多き某ひきこもりによる孤軍奮闘の日々がここに。

ひきこもりと友達募集

f:id:horo_GS:20210208020020j:plain

メンタル、ひきこもり向けの友達募集サイトMHTB(現menpal)」をご存じだろうか?

世に数多くあるその手の募集サイトの中でも、一際異彩を放っている存在と言えよう。

何せ、社会的には日陰者として扱われる存在が、繋がりを求める最後の砦なのだから。

 

かくいう私自身もそのMHTBユーザーの一人である。

或いは「ひきこもりでも友達が欲しい」という人間の性に突き動かされてだろうか。

 

利用法としては至って簡単で、まずはメールアドレスによるユーザー登録を行い、IDとパスワードを獲得する。そして次の瞬間にはもう自分なりの「募集文章」を掲示することができ、それを見た他者がサーバー経由でメールを送ってくるという仕組みだ。流石その手のサイトだけはあって、孤独、希死念慮、その他にもさまざまな病状を表すタグを設定できる。

 

 

募集の実態

 

「30代男性ひきこもり」

という見事なまでに華のないプロフィールを掲げる筆者であるが、そんな人間が募集を出してみる場合の実際の手ごたえとして、かなり良くてもせいぜい一度の更新に対して2件のメールが来る程度で、しかも全く来ない0件である方がむしろ日常風景だ。サイトの属性が属性なだけに、積極的に自分から交流しようというユーザー自体が少ないことも考えられる。また、筆者自身の募集文章が堅苦しくて長々しいというのも原因の一つかも知れない。(しかしこれには、後述するメリットもある)

 

そんな中でも幸い筆者は、男性、女性含む10人以上のとても気の合う方々と邂逅を果たすことができた。MHTB歴がいつしか2年以上になっていたという、ある種狂気の如く執念が実った成果かもしれない。これが普通の出会いにはないちょっと面白いところだが、MHTBユーザー同士、ある程度打ち解けるとお互いに「普段どのくらいメールが来るか」ということを報告しあったりする。傾向として、男性はやはり私と同じく来てもせいぜい2件程度だったり、日頃は0件が当たり前という傾向にある。そして、こちらからメールを送る場合でも「向こうから反応が無い」という悲劇についても、満場一致の日常だったりするのだ。都市伝説的に囁かれる、大量のサクラ投稿説、bot説などもある(笑)

 

しかし一方で、MHTBを介して運よく知り合ったとある女性が語るには、更新のたびに私の10倍、いや30倍以上のメールが送られてきていたらしい。よって、メールに目を通すことすらもはや不可能な量となり、それが負担となってすぐに募集を取り消してしまったようだ。その方が文章能力に長けていたことも当然理由として大きいだろうが、その他の女性ユーザーも全体的に男性が募集する際と比較して0のケタが一つ違うのだ。この男女における反応の格差は、なかなかに我々の頭を捻らせてくると思う。いや、そんな難解なものでもなく、現代のネット全般に広がる単純な闇というべきだろうか(笑)

 

 

短文vs長文

 

これは正しい使い方なのかわからないが、個人的なMHTB利用の醍醐味として「募集文の試行錯誤」という点も挙げられる。これはつまり、どのくらいの文章量にするか、また募集文全体をどういった雰囲気にするかによって、メールが送られてくる手ごたえが変わったり、来てくれるユーザーの層が変わる感触があるのだ。

以下は、あくまでも主観になるが…

 

  • 短く簡潔な募集をする場合

フットワークが軽かったり、気軽に話せるラフな雰囲気を持つユーザーさんがメールを送ってきてくれる確率が高く、またメールが来る件数自体も増える傾向にある。上手くいくとこんな冴えないおっさんでも一気に5件いただけたりする。その反面で冷やかしのような態度の人や、ぶっきらぼうな人が来るリスクが上がったり、そもそも「短文=自己表現が最低限」となってしまう都合上、少し話し込んでみると全然お互いの気質が合わずに結局途絶えてしまうことが多い。

 

  • 長く重厚な募集をする場合

 メール件数が短文時に比べて大幅に減り、再掲の度に「0件」が当たり前になる反面で、逆境にありながらも向上心を持たれていたり、落ち着いていて真面目なユーザーさんがメールを送ってきてくれる確率が大幅に上昇する。長い文章でコチラの雰囲気を表現する都合上、初対面から深い理解を示してくれたり、まるで旧友のように気質の合う方と会えることが多い。したがって、その後の関係も途切れずに長く続く傾向にある。

 

以上を読むと長文募集に利があるように思われるかも知れないが、冷静にみると私個人の好みによる部分が大きい。 これはあくまでも一つの事例として認識し、各自で自分に合った募集スタイルを見出すべきであろう。

 

 

募集のコツ

 

偉そうにコツを提示できるほど沢山のメールをいただいているわけではないが、それでも数年に渡って続く交友関係が得られていることを言い訳として、「友達募集」という観点から考えられる常識を改めて整理しておこうと思う。自己確認の意味も込めて。

 

1.自分が何者であるかを伝える

まず大前提として、相手は募集を出すコチラが何者であるのかをまったく知らない。そこで、何も知らない相手の立場にたち、自分がどのような人物であるかをわかりやすく届ける必要がある。また、人の心理には「わからないものほど警戒する、怖がる」という性質がある。それは逆に考えれば、人や物の性質がわかればわかるほど警戒心が解けて、親しみがわきやすくなる傾向にあるということだ。どういった状況、気質の人物であるのかが掴みやすく、自分でもメールを送りたくなるような募集文を目指したい。

 

2.何がしたいのかを伝える

 これは前の項目とも重なるが、募集を出す以上は明確にこちらの目的を伝えなければならない。例えば「ひきこもり同士励まし合える関係が築きたい」だったり、「通話や文章のやり取りを通して共にコミュニケーション能力を磨きたい」「趣味について語り合える関係が欲しい」など。何がしたいのかわからない相手がポツンと佇んでいたとして、話しかけようと思わないのは現実世界と同じなので、ここも極力わかりやすく表現出来るよう心掛けたい。

 

3.諦めない心

だいたいこの手の文言はワン・ツー・スリーで締めると格好がつくものだと弁えているが、3つ目はこれと言って思い浮かばなかった……(笑) ので、やや強引に締めくくることになるのだが、しかしこれは私が万人へ伝えたい重要メッセージでもあるので、しばしの醜態をご容赦願いたい。これはきっぱり断言するが、募集の心構えとして何よりも大事なのは「諦めない心」である。

 

唐突だが、諸君は「ドッペルゲンガー」という非常に有名なオカルト噺をご存じだろうか? 内容は、この世界には自分に姿かたちそっくりの人間が何人かいて、もし彼らにばったり遭遇でもしてしまった日にはどういうわけか「死んでしまう」というものだ。いや、それはちょっと物騒な例で申し訳ないのだが、他には所謂「運命の人」とか、「ソウルメイト(魂の伴侶)」という概念もある。そっちそっちでまた出会い系みたいになるが……(笑) ともかくそういう風に、自分でも想像もつかない程自分にそっくりであったり、考え方がピッタリあう人間が少数ながらも存在している故に生まれた逸話の数々だろう。つまり、あなたがまだ出会えていないだけで同じように孤独を感じ続けている、またはあなたの到来を待望している誰かがこの世には存在している。どうかそのことを忘れない欲しい。仮にMHTBで何か月も碌な遭遇がない惨状があったとしても、希望を絶やしてはならない。いっそ狭いMHTBの世界を出て、広い視野で探してみるのも良いだろう。ずっとあなたを呼び続けている「誰か」の声を無下にしてしまわないように。

 

 

最後の砦

 

「ひきこもり」という状態にある者にとって、友達を作れる場所は極めて限られている。現代では、当時交流の盛んであった国産のメタバース全般もある日世から忽然と姿を消し、辛うじてあるゲームのフレンド機能やSNSという繋がりも、現実交友の延長としてでも使わない限りは、間口の広い一方で関係が薄すぎて「友達」と呼べるに足るか怪しいと私には感じられている。かといって、一般的な友達募集の場に日の目を浴びない属性の者の居場所はまず用意されていないし、何らかの宗教やセミナーに入るほどの自暴自棄、または自助グループ等に入るような思い切った現実世界での行動力もない。したがって冒頭に書いた「最後の砦」という誇張表現もある意味では笑えないのである。

 

人はただでさえ孤独を感じる生き物だとされている。それがひきこもりのような状態であれば、尚更質感を持つ苦悩として付きまとうことだろう。「孤独?否、我は孤高」のように感じられている人でも、心のどこかでは他者のとの繋がりを拠り所としており、完全な孤独状態に耐えられる人間などそうそう存在しないことだろう。まるで世界に自分1人だけが取り残されてしまったような、長く孤独な夜を噛み締めてきたひきこもり同志も少なくはないことだろう。その上でMHTBのような「最後の砦」に行き着き、残った僅かな気力を振り絞り、他者との繋がりを得ようとしている人も多いと思われる。それでも、実際は上手くいかないことの方が多い。「世界は残酷だ」なんて普遍的な真理の、そのめでたいまでのわかりやすさくらいしかこの世に親切なものなんて無い。募集をしても結局きちんと話をする気がある人は来なければ、こちらから送ったメールは理由もわからないまま無視されてしまうことが常だ。しかし、そんなものももう割り切ってしまう他ないのだ。人生とは基本的には失敗につぐ失敗の積み重ねであり、マンガやドラマのように何をやっても成功続きの人間なんて存在しない。むしろ、悲しみを知った深さだけ人間は深く成長していくものだと私は思っている。これから幾度となく傷つき、失敗し、絶望を繰り返していくとしても、そうした分だけ深い認知を携えた人間になれることだろう。我々はあらゆる失敗さえ糧とし、悲願の成就へと向けて邁進して行こうではないか。

 

本当の「最後の砦」とは、こんな時代でも希望を絶やさない私たちの心かも知れない。

同志諸君に善き前途があることを祈り、これにて陳腐な記事を締める。