ひきこもりの作法

一本、また一本…集めた後ろ指の数はアイドル級。悩み多き某ひきこもりによる孤軍奮闘の日々がここに。

ひきこもりと頭のスイッチ

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たとえどんなに嬉しい時でも日は沈み

どんなに悲しい時でもまた日は昇る。

 

まるで生物の一生を凝縮したミニチュアのように

幾度となく繰り返されるこの昼夜の物語を

皆様はいかがお過ごしだろうか?

 

 

昼夜のスイッチ 

 

ここで急に込み入った話に入ってくるが、これは私の発想力不足により、本題に至る道のりに洒落た絨毯の一枚でも敷けなかったことが理由であることを正直に告白し、先んじて謝罪しておきたい。

 

学生、社会人の一日の過ごし方が、完全に正しいという保証は何処にもないが、「外的な時間」「内的な時間」の配分という観点ではかなり有用な手がかりが潜んでいるように思え、改めて注目してみる。

 

「外的な時間」とは即ち、外の世界で他者との交流に勤しむ時間。

対して、「内的な時間」とは、帰宅して自省や思考の整理に浸る時間。

本記事では便宜上、そのように表現させていただく。

 

健康的な学生、社会人の生活では、それら二種類の時間が程よくそれぞれの領分を守って両立しているように思える。具体的には、会社や学校で過ごす時間が「外的な時間」であり、終業時刻に席を立ち、疲れ頭で歩く帰路を経て、帰宅した自室で身を浸すのが「内的な時間」だ。

 

思えば私も学生時代といえば、外では風船のごとくに張り詰めていた緊張感が帰宅と同時にようやく抜けて、机上に広げた課題用紙の表面を、シャーペンでコツコツ鳴らしながら一日を振り返ったり、電気を消した部屋で音楽を聴きながら荒んだ神経に水をやっていた気がする。とても精神的に元気とは言えなかった学生時代だが、神経の切り替え機能は今よりも遥かに正常に稼働していたことだろう。そうしたメリハリが人間らしい在り方に重要な作用をもたらしていたであろうことを、ひきこもりの今になって重々理解できたことはなんとも皮肉なものである。

 

「電気のONとOFF」または「静と動」、或いは「陰陽」とでも表現すべきか、ともかくひきこもりにはその手の切り替え機能が錆ついて動かなくなっている傾向がみられる。昼を無くしては地上のあらゆるものが凍てつき、夜を無くしては地上のあらゆるものが焦げ付いてしまうように、反対の性質を持つ二者によって成り立っている不思議な光景が、この世の原理の一つと言えそうだ。父と母、光と闇であれ…。そうであればこそ、我々個々の生命体としても、母なる原理に沿った心身の在り方が推奨され、そのような在り方こそが健康をもたらすように予め設計されていたとしても何ら違和感はない。正しい健康リズムを少しずつでも取り戻していきたい所存だ。

 

※本記事執筆中、以前に似たような記事を書いたまま放置していたことが判明し

いっそこちらに合併させようということで、以下にオマケとして続きます。

 

 

情報の呼吸

 

ひきこもりは、長期間身を浸した独自の生活様式によって、普通の人では錆び付くはずもない回路が錆び付いてしまっている場合が多い。例えば、人間が生きる上で必需品である水を出すための水道蛇口がそもそも錆び付いてしまっているとか、それほど大胆なまで深刻に…。

 

そのように数ある錆び付いた回路の中でも、今回は情報の「インプット」に対する「アウトプット」という箇所に着目してみようと思う。なるほど、これもまた凄まじい錆の塊だ。

 

息を「吸って」「吐く」ことが呼吸であり、そうすることで人体を巡る血液中には酸素が取り込まれる。心臓が収縮と拡大を繰り返すことによって、ポンプの役割で全身に血液が行き届くことも然り。そのように、循環によって万全な生体活動を維持することが人間の根本的な性質であることはわかりやすい。もっというと、そうした循環の重要性は、経済や自然のシステムに対しても同様に当てはまる、もはや普遍的な地球上の原理であるといえそうだ。そのように考えた場合、情報を吸い込む一方で十分に吐き出されない状態が続くとなれば、我々はどうなってしまうのだろうか。肺の場合は膨れ上がって困ることになるが、頭の方も同様かも知れない。或いは、累積した情報たちが、流動性を持たぬただの石灰として凝り固まり、意識の阻害を行うことだってあるかも知れない。

 

さて、本題である「インプット」「アウトプット」の話に入る。もっと身近な日本語に置き換えた場合は、情報の吸収と放出だ。たとえば本を読んだりアニメを観ることは吸収する「インプット」側に位置する。そして、その内容についてを誰かに話したり、感想を書き綴ったりするのであれば、そこで初めて内から外へ向かう「アウトプット」となる。そう考えてみると、我々引きこもりとは「インプット」の行為は日頃特段意識せずとも行っているものの、その先の「アウトプット」は意識しなければ機会を失っている。先に挙げた「吸うばっかりで膨れ上がってしまう」懸念があるわけだ。

 

我々の頭は幸いにも、肺や風船の構造と違って、実際に膨らんで破裂したりはしない。

その代わりに、徐々に機能が錆び付いてきたり、最悪は使わない脳の回路が忘れ去られてしまうようになっている。

 

そのように「アウトプット」が忘れ去られてしまうことへの対処法として、私個人としては最も手軽なネットを通じての発信行為を推奨したい。私がまさに今こうして文字を入れ込んでいるブログという形式は現代ではやや古臭いが、他にも無数に湧いて出てきたSNSツールやメッセージツールという発信コンテンツの発達により、不特定多数へ向けて、或いはリアルないしはネット上の知人へ向けて発信できる機会は、探せば幾らでも眠っているのである。取り込む一方になりがちな情報を内から外へと向かわせて、脳が呼吸をするような循環を作り出すことを意識し、錆び付いた機能を回復させていきたい。

 

 人の構造とはそれぞれが一定の独立性を持ちながらも、例えば心身のどちらかが沈めばもう片方も引きずられるように、広く同期している一面もある。人によっては、今回挙げた情報のインプットとアウトプットによる循環を清浄化することにより、その他の心理的機能もつられて回復するという期待も見込めそうだ。

 

埃の積もった家具を掃除すれば、案外今でも通用するくらい素敵な外観が表れるように。または、錆包丁の錆を落とし、輝く刀身を呼び戻す楽しさのように。ひきこもりであればこそ、自らの回復の過程もまた一つの生きがいとして楽しんでいきたいところだ。ひきこもり同士たちよ、逆風の中でこそ強くあれ。