ひきこもりの作法

一本、また一本…集めた後ろ指の数はアイドル級。悩み多き某ひきこもりによる孤軍奮闘の日々がここに。

ひきこもり不動禄vol.2 「おかげさまで」

肌に纏わる湿気。鈍行する雲海。それでいて、日差しの熱さ。

近頃は怠惰に日々を過ごしてしまっています。

 

もう5年、おかげさまで……

いつの間にか、もう5年も経っていました。

私がDiscord(ディスコード)というコミュニケーションツールを用い、ひきこもり生活を送りながらも「他者との会話」という社会的生物の重大事項に慣れるべく力を入れて訓練をし始めたのはもう5年も前のことになります。このことには、最近自分の「プロフィールページ」を開いてみて改めて気が付きました。

 

その決して短くはないディスコード歴の中では、趣味嗜好の大幅な乖離から会話が全く弾まなかったり、かといってそこを上手くフォローしてゆく技術も持ち合わせておらず、運良く弾んだところで緊張のあまり空回りしてしまうことが多く、心が折れそうになるタイミングは幾度となく訪れたものです。それでも、私の不器用で空回りしてしまうところや、ちょっと(だいぶ)感覚が変なところを広い心で受け入れてくださって、温かく接してくださったフレンドさん方の支えがあったお陰で、もう底まで尽きたと思っていた気力もその都度に補充していただいて、私は何度も蘇ることが出来ました。私が5年間もディスコードでの挑戦を続けられたのは、彼らとの繋がりがあったお陰だと断言出来ます。そうであれば、こちら側からも彼らの幸福に貢献すべく何か大きなものを齎したいのですが、同時に今の未熟な私にはそんなことが出来るほどの力が無いことを痛感し、情けない気持ちになります。ご厚意を賜った際には、また違った形で豪勢にそれを返すためにも、まず私自身が自立した立派な人間にならなければいけないなと思わされます。

 

なるべく知らない人と通話をして初対面の緊張感に慣れたり、ついでに、なるべく異なる意見を取り入れて人間的に成長しようという意識でやってきました。5年にも渡る喜怒哀楽の挑戦劇の甲斐があって、今となっては誰かと通話をすることの緊張感、恐怖感と言ったものはほとんど無くなりました。5年前の私が90%の緊張感で頭が真っ白のままピエロの玉乗りみたいな危なっかしい応対を繰り返していたとすると、今ではそれが30%くらいにまで減って、冷静に相手のお話しに耳を傾けたり、自分の意見を落ち着いて、適切な形でお伝えすることが出来るようになりました。「何を言うかではなく、どういう風に言うか」という先人の教訓を活かし、相手と意見の違う事や、ネガティブな話題であっても最小限の不快感でそれを伝えられるようになった気がしています。

90%から30%へ。私の緊張感とは実に当初の3分の1にまで減っており、もうこれ以上は減らないのではないかと思っています。

 

どうも、私の能天気なところはなかなか治らないようです。何か自分が一つ出来るようになったら、とにかくそれを誰かにお裾分けしたくなる。未だそれを出来ていないような誰かを見つけては、「早くこっちにおいで」と手引くことばかりが意識を占めてしまう。それくらい自分でも、出来なかったことが出来るようになって嬉しいのだと思います。しかし、それが必ず誰かの為になるという確信も無いですし、あろうことか肝心の自分自身を支える余裕も乏しいままで、自身の成長も中途半端に停滞したままやってしまうのだから本当に能天気です。孤独には強いように自認していましたが、本当の私は心の底から寂しがり屋なのかも知れない。最近はそんな風にも思えてきています。

 

純粋な「コミュニケーション能力」という観点からしましても、「社会人と遜色ない」という評価をいただくことが増えてきましたので、ひきこもりの私がこれ以上の延ばすのは難しいのではないかと思っているところです。

 

今の私がコミュニケーションの真髄というものを一言で言い表すとすれば

「順番に、聞くべきことを落ち着いて聞き、伝えるべきことを落ち着いて伝える」

となります。つまるところ、相互の意思交換だと思うのです。これは生物的にもエネルギー的にも「異」とは互いにとっての利益であり、ただ等価交換し合うことで両者が潤い続けるのだと思います。メディアで主流とされているコミュニケーションには主にこの基本的な軸の欠落が見られ、そのせいで多くの若者たちが所謂コミュ障に悩まされているのではないか?とも思えてきています。

 

「仲良くなる」という課題

主に初対面の相手と打ち解ける会話のコツや、互いに不快感無く会話を続けるコツにつきましては、既に私にしては上出来と言えるくらい掴めただろうと自負しております。

一方で私は「人と距離を縮める」ということが恐らく大の苦手で、長年の仲であっても妙に礼儀の配分が多かったり、堅苦しくて取り付く島もないようになっている気がしています。

 

長年のひきこもり生活によって「仲良くなる」の自然なやり方がわからなくなっているのではないかと推察もしています。何だか、仲良くさせてもらっている相手に対しては繋がりを尊ぶ、敬うという気持ちの方が強く出てしまい、それによって他人律儀なよそよそしい態度になって、不快な思いをさせてしまっていないか不安になります。持ち前のやや脅迫的な真面目さから念入りに締め過ぎた兜の緒を緩めて、もっと自然にコミュニケーションを取れるようになれたら嬉しいです。これについても既に私の限界値なのだとすれば、それもまた華麗なる敗北なのでしょう。人々に「やっぱり変な人だ」と引き続き笑っていただけるならば、それでもう十分な贅沢なのだと存じております。

 

停滞の感

基本的なコミュニケーション能力については己の成長に満足する一方で、他の色々な能力はこれと言って伸ばせていないなという不甲斐なさがあります。相変わらず、生き抜くための何か実用的な資格が無ければ、収入も無い状態です。同じひきこもりの人々であっても、だいたい皆さんは福祉サービス等を活かして日々着実な社会復帰への過程を歩まれておりますが、私といえば未だにただのひきこもりであり、表立って掲げられる実績なんて何もありません。個人的な状況としても、色々な家庭の事情もあって「今は何としても現状維持、耐えるが精一杯」という風になってしまっています。

 

私はこのままあらゆる能力が日に日に衰えて行って、結局何も成せぬまま、静かに一人で死んでしまうだけなのかも知れない。碌に友達もおらず、教室の隅っこで小説を読んでいたネクラの末路なんてそんな程度が相応しいということか。時折、そんなことを考えて虚しさに胸を占められます。仮に私が死んでしまった場合は、霊体としてお世話になった人々の危機を超常的な力で解決するような者になりたいです。化けて脅かしたり、悪戯をしてくるような霊には決してならないのでその点はご安心ください。私はそういうくだらない目的で生活している、意識の低い霊が嫌いです。

 

明日には明日の風が吹く

とはいえ、将来というものは誰にもわかりません。「明日には明日の風が吹く」という言葉の通りでございます。何もかもが順調に進んでいるような時にちょっとしたことから人生全体の崩落が訪れてしまうことがあれば、何もかもが終わっていくような時にこそ全てを覆す幸運が降り注ぐようなこともあります。私自身もそうした「奇跡」をこれまでに何度も経験してきました。

 

そもそも、かつて希死念慮に頭を支配されていた自殺願望の孤独な世捨て人が、今では願って人々と繋がり、生きようとしているわけですから、既に人生がとんでもなくひっくり返っているわけです。苦難があるからこそ我々は挑み、その過程で大いなる天啓を得たり、唯一無二の仲間を得られることだってあるのでしょう。

 

将来がどうなるのかはわかりませんが、人生に起きる様々な理不尽に落胆しながら、何度も絶望して諦めそうになりながら、それでもまだ生きてくださっている同志たちの存在が堪らなく嬉しく、離れていても心強いということは、私にとって不朽不滅の真実であります。

 

薄暗い世界で、それでもまだ胸に灯るこの温かな命を共に祝い

絶望さえも力に変えて、明日もまた生きて参りましょう。